織田信長にとって
武田信玄は友好勢力
遠江攻略は桶狭間の戦い以降、徐々に家康の勢力が浸透していったが、一気に決着がついたのは、1568年の織田信長の上洛と連動して、徳川家康と武田信玄が、駿河は信玄、遠江は家康で山分けしたためである。それまで、対立しつつも、いずれも完全絶縁にはなっていなかった今川氏と縁を切って追い込んだのである。
信長と信玄というと宿敵のように思っている人が多いが、本格対決になったのは信玄が死ぬ前の最後の一年だけである。それまでは、信長と信玄は同盟関係にあったというよりは、貧乏な地方勢力だった信玄は天下を狙う勢いの信長の友好勢力だった。また、武田が滅亡したときに勝頼とともに死んだ嫡男の信勝の母は、信長の姪で養女、つまり、信勝は信長の孫だったのである。
この遠江の豪族の中に、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公であった井伊直虎らがいた。「おんな城主 直虎」では、家康夫人である瀬名姫(築山殿)の母(今回は巴)は井伊一族だということになっていたが、「どうする家康」では今川一族ということになっている。
そして、やはり今川一族である鵜殿長照の夫人で、夫の死後に女城主として曳馬(浜松)城で徳川軍と戦う田鶴(飯尾連龍の妻)は瀬名姫の幼なじみということにされているが、このあたりは、軍記物でも人物の相関関係はさまざまで何が本当かは分からないので、脚本家はいかようにでも書けて都合が良い。
ただ、ひとつのポイントは、この時代の遠江の状況を見ると、井伊一族でもそうだが、同族の中でのお家騒動が激しく、兄弟や従兄弟がそれぞれ違う有力者について活路を求めていた。だから、なんとか一族は今川だとか徳川だとかいうことにはならなかったのである。なにやら、ヤクザの抗争みたいなものだ。
また、今川に表面はつきつつ徳川ともよしみを通じていることも多いし、今川氏真などは、それを疑って、飯尾連龍とか井伊直親(直政の父)などを早まって誅殺しすぎて墓穴を掘った。しかし、彼らは旗幟鮮明に徳川についたわけではないので、井伊氏にしても、徳川が遠江を制したら、ただちに取り立てられたというわけでもなかった。