20~30年の時間単位で考える
「学力大国」の未来

 現在の人口構造を前提として、また人々の行動を考えたときに、少子化からの脱却は数十年単位で難しい。少子化対策は必要だが、当面「効果」は得られないと割り切るべきだろう。

 教育の強化で「学力大国」を作った場合、その効果は、20年から30年くらいの時間スケールで得られるのではないか。

 例えば20年後、研究費を潤沢に得て、教師の立場が安定した大学や大学院からは、主に飛び級で進級した優秀な若手研究者が、有望な研究成果やビジネスを作っているのではないか。競争に鍛えられながら、後の世代も続いているはずだ。

 ちなみに、「世界レベルの学問を学ぶには留学してください」と言わんばかりの、研究レベル教育のアウトソーシングをしている現在の日本で、「競争力のあるイノベーション」が生まれるとは考えにくい。

 仮に、「OECD諸国の中でも突出した1位」の学力を日本人が平均として持つなら、日本人は人材として世界で引っ張りだこだろうし、ビジネスを通じて世界で稼ぐことができるはずだ。一人一人の「生きる力」にとって、身に付けた能力ほど心強いものはない。

 また、学力への投資は、レベルが高くてもそうでなくても、個々人にとって無駄にはなりにくい。

 対象が学力でなく、スポーツでも芸術でも職人芸でも、頂点のレベルを上げるためにはぶ厚くて厳しい競争が必要だ。中国ほどの人口はないとはいえ、日本には競争を効率化できる同質的な若い人口がまだある。「○○業」といった特定の分野だけでなく、「学力」というくらいの大きさのターゲットを持ってもいいのではないだろうか。

 ビジネスの競争にあって、つまりは経済的な豊かさを得る上で、競争上の「順位」は決定的に重要だ。WBCを見ても分かる通り、優勝と準優勝ではイメージも経済効果も決定的に違う。

侍ジャパンのWBC優勝で
教訓とすべきことは?

 ここで、われわれは侍ジャパンの面々に一つ学ぶ必要がある。

 彼らはほぼ例外なく子どもの頃から野球一筋に打ち込み、厳しい競争を勝ち抜いてきた野球のエリートたちだ。若年の頃からの徹底的な鍛錬と、彼らに敗れた数多の選手たちとの苛烈な競争があってこそ、初めて彼らはトップに立つことができた。

 日本人が今後「○○大国」を目指すに当たって、少なくとも意識の上では、彼らが野球に向けたような厳しさが、社会レベルでも、個人レベルでも必要なことを覚えておこう。意味のある優位を作るためには、「極端な集中」と「極端な競争」が必要なのだ。それ以外の方法はない。

 対象を「学力」とすることに賛成するかしないかは意見が分かれるかもしれないが、「○○大国」を自称できる日本を作るために、WBCを教訓として味わうなら、これ以外の意味はないように思われる。