太宰が訪れたふるさと
『津軽』が描く切なく美しいシーン

 刊行は一九四四年。戦局が厳しさを増す中で、太宰はふるさと津軽を訪ねる。そこで出会う多くの人々は、かつて太宰が育った家の使用人たちだった。その邂逅の一場面一場面は、どれをとっても切なく美しい。

 戦争による窮乏が彼に、生涯で唯一の心身の健康をもたらしたという皮肉も、なんとなく太宰らしいではないか。

 よく知られるように、太宰は津軽の地主の家に生まれた(一九〇九年)。私も五所川原市金木にある「斜陽館」を訪れたことがある。大きな家の玄関からすぐに土間になっていて、秋口になると、そこに小作人が米を運び込み検査を受ける。そのまま米は奥の土蔵に運ばれる。太宰はそんな風景を見て育った。

 金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町ということになっているようである。

 太宰は中学時代を過ごした青森市を皮切りに、まず津軽半島の東海岸を北上し竜飛岬へと至る。

「竜飛だ。」とN君が、変った調子で言った。
「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互ひに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いているとき、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこにおいて諸君の路は全く尽きるのである。