KDDI高橋誠社長が明かす「稲盛和夫さんと過ごした新人時代」の幸運稲盛和夫氏(撮影/神崎順一)

昨年8月にその生涯を閉じた稀代の経営者、稲盛和夫氏。京セラ、KDDIを創業し、経営破綻に陥ったJALを立て直した輝かしい経営手腕はもちろん、その人生哲学を信奉する人も多い。2023年3月発売の新刊『熱くなれ 稲盛和夫 魂の瞬間』では、稲盛氏の情熱の思想と共に、彼を直に知る人々が明かした貴重なエピソードが紹介されている。稲盛氏が20人で始めた第二電電(後のKDDI)の新入社員であり、今や4万人以上を擁するKDDIの社長にのぼり詰めた高橋誠氏(高の文字は正式には“はしごだか”)の回想を、この本からフルバージョンで、前編と後編の2回に分けて掲載する。(KDDI社長 高橋 誠、インタビュー/上阪 徹)

スケールの大きな挑戦にほだされて志願

 僕は工学部出身なのですが、大学を卒業する1984年当時、理系は就職が引く手あまただったんです。大企業の推薦も得られる環境にありましたが、大企業の駒になるのは嫌だな、という思いを持っていて、当時ベンチャー企業の代表格だった京セラに興味を持ちました。

 滋賀県出身でしたから、故郷に近いところで働けるかも、という甘い期待もあった。大学4年間、東京で好き勝手させてもらいましたので。担当教授からは、とても厳しい会社だよ、と言われました。

 同期の新入社員は300人以上いて、配属を考えるにあたり、各事業部が勧誘レクチャーを行ってくれました。自分たちの事業部はこんなことをやっている、と説明してくれるわけです。

 そこで異質な事業が一つあった。これが、電気通信事業でした。プレゼンをしたのは、電電公社から転じた千本倖生さん。セラミックスの会社をつくった稲盛さんが、通信事業に挑戦することを考えているというわけです。それはもう鮮烈でした。

 今もはっきり覚えているのが、「JRが民営化されたとき、国鉄社員の中で最初にお客さまに頭を下げたのは関西の社員だった」という話です。東京の私鉄は放射状に走っていますから、JRとはあまり重ならない。ところが、関西は私鉄の阪急と阪神がJRと並行して走っています。国鉄は、民営化されて初めて民間との競争にさらされ、お客さまの存在を強く認識することになった。競争が行われ、切磋琢磨を続けていく中でこそ、真にお客さまによいサービスが届けられる、というわけです。

 そして、これは通信の世界も同様である、と。電電公社の独占状態のところに民間が入っていくことによって、世の中はもっとよくなる。だから、京セラは新たに事業に参入し、競争を通信の世界にも持ち込む。そうすることで、今は高い長距離電話の料金を安くするのだ、と。

 この発想のスケールの大きさと、アリがゾウに挑むんだという構図に、新入社員の多くはほだされました。この新しい事業に挑戦してみたいと、次々に手を挙げて志願したんです。

カード審査が通らないスタートアップ企業

 そんな中から9人が選ばれ、僕はその1人となりました。前身となる本部に配属され、やがて第二電電企画株式会社ができ、出向しました。ところが数ヵ月すると会議室に呼び出されて、「転籍にするから」と言われました。

 ベンチャーとはいえ、東証一部上場企業の京セラ、しかも世界的なセラミックスの会社に入社したつもりが、名もないスタートアップ企業の一員になってしまったわけです。ただ、とにかく面白そうでしたから、びっくりはしましたが、なんとも思っていませんでした。

 ただ、その後クレジットカードをつくろうとしても審査が通らずに苦労することになります(笑)。ベンチャー企業からのスピンオフをいきなり経験したことは、僕自身にとって大きな転機になりましたね。