なお、後年になって吉宗の生まれが恵まれなかったことは「不都合な事実」となったか、紀州藩士の家系の女性から生まれたと系図が書き換えられた可能性も指摘されています。つまり、系図を書き換えなければならないほど、母の身分は低かったのです。
世継ぎ候補が亡くなり
転がり込んできた紀州藩主の座
身分には恵まれなかった吉宗ですが、彼はフィジカルに恵まれたようです。吉宗はすくすくと成長し、当時としては「巨人」ともいえる六尺(182センチ)もの長身になったと記録されています。男の平均身長がおおむね157センチ前後の時代ですから、現代で言えばほぼ2メートル。バスケ選手並みの身長に感じたでしょう。
しかし、フィジカルが屈強だったとしても、当時は「生まれた順」が何より重要。吉宗は1697年に越前国丹生郡(現在の福井県丹生郡)に3万石の領地を与えられる大名になりましたが、紀州徳川家の後継者の座(紀州藩主)には光貞の長男・綱教がいました。
綱教は1705年に亡くなってしまいますが、それでも3男の頼職がいる状況。このまま時が経てば、吉宗は地方のいち大名として過ごすことになったでしょう。
ところがなんと、その頼職も後継者の座に就いた直後に亡くなってしまったのです。1705年、予想だにしない形で吉宗のもとに紀州藩主の座が転がり込んできました。
裏を返せば、当時はそれほど健康に長く生きることが難しかったとも言えます。当の吉宗はといえば、運動や散歩を好み、質素な食事を心がけていたとされます。規則正しい生活がそのフィジカルの強さを生んだのかもしれません。
カネとコメの備蓄に成功
藩主として名君に
紀州藩主の座に就いた吉宗は、主に財政面を中心とした改革で成果を挙げたと評価されます。困窮した藩財政の立て直しのために倹約を進め、農政改革も実行。さらに、宝永の大地震に代表される自然災害に対しても手を尽くして対応にあたりました。
結果、紀州藩主時代の約12年間で大量のカネとコメの備蓄に成功する功績を残しました。ここから、紀州藩主としても吉宗は名君だったとされます。
ただし、ずっと現地で指揮をとっていたわけではなく、吉宗は紀州藩主時代の大半を江戸で過ごしました。では、吉宗は江戸で何をしていたのか?