それは、動揺する中央の政治に関わるためでした。というのも、幕府では1712年に将軍・家宣が亡くなると、その後継者の座に家宣の4男・家継が就任しました。しかし、家継は当時わずか4歳。政治的な判断をできるはずもなく、将軍の補佐役である側用人たちが実行部隊としてサポートしていたのですが、内部では主導権争いから深刻な対立が起きていたのです。
そして1716年。8歳となった家継も危篤に陥ってしまい、ついに秀忠以来続いた血統の断絶が確実になりました。
そこで、将軍候補に浮上したのが尾張徳川家の徳川継友・水戸徳川家の徳川綱条・そして吉宗でした。「保険」の「保険」だったはずの吉宗が、有力な将軍候補にまでなったのです。
スパイの派遣、大奥に取り入る
したたかな戦略で将軍に
3人の将軍候補には、いずれも明確な決め手がありませんでした。ただ、最有力候補が継友で、次点に吉宗だったとされています。理由は、尾張徳川家が御三家でも一番格式が高いと考えられており、継友自身にも致命的な欠点がなかったからです。
しかし、幕府首脳陣の議論の結果、次期将軍に指名されたのは次点であったはずの吉宗でした。なぜ、吉宗は不利な立場から将軍の座を射止められたのでしょうか?
その大きな要因の1つは、情報戦でした。
齊藤颯人 著/本郷和人 監修/本村凌二 監修
実は、吉宗は継友を上回るべく情報収集に力を入れていました。尾張・水戸の両家にスパイ(密偵)を派遣していたという記録もあり、状況をしっかりと把握していたのでしょう。そのため、家継が危篤に陥った際は、御三家の誰よりも早く江戸城へ参上したと言われています。
また、人間関係のほうも抜かりなく、吉宗は大奥の天英院(家宣の正室)にも猛プッシュされていたのです。
一方、最有力の継友は幕府内で嫌われ者だった側用人の新井白石や間部詮房と親しかったので敬遠されたという話もあります。
このように、吉宗は政治的な立ち回りを意識していたことが将軍となれた要因だったと言えるでしょう。その意味では、紀州藩主になるという偶然生まれたチャンスを活かしきり、なるべくして将軍になった男が、吉宗だったのです。