ジョブズの神格化は格差の再生産、「仕事に情熱を追い求めること」の危険性を米識者が警告 Photo by Moni Valentini

あなたはキャリア選択で何を最優先するだろう? 年収? 雇用の安定? それとも、故スティーブ・ジョブズ氏が説いたように「自分が愛せる仕事」かどうか、つまり「情熱」だろうか? 米ミシガン大学社会学部のエリン・A・セック准教授は、米国で熱烈に支持されている「情熱主義」に警鐘を鳴らす。格差を促し、企業による搾取のツールにもなりうるという。英フィナンシャル・タイムズ「2021年ベストビジネス書」の1冊に選ばれた『The Trouble with Passion: How Searching for Fulfillment at Work Fosters Inequality』(『情熱が抱える問題――仕事に充足感を追い求めることが、いかに格差を助長するか』未邦訳)の著者でもあるセック准教授に話を聞いた。(ニューヨーク在住ジャーナリスト 肥田美佐子)

仕事にひたすら情熱を追い求める
「情熱主義」に秘められたリスク

――まず、あなたが「Passion Principle(情熱主義)」と呼ぶものとは何か、教えてください。書籍『The Trouble with Passion』(『情熱が抱える問題』未邦訳)や、ハーバード・ビジネス・レビュー誌の記事「『仕事の情熱』と『十分な収入』との間でどうバランスを取るか」(邦訳版はダイヤモンド社)の中で、情熱主義のリスクを説いていますね。

エリン・A・セック(以下、セック) 「情熱主義」とは、仕事選びで「情熱」を優先することです。

「情熱のおもむくままに」という考え方は、1980年代後半以降、米国で広く信奉されるようになりました。その背景には、大学を卒業したホワイトカラー層が、ブルーカラー層やサービス産業で働く人々と同じように、安定した仕事を享受できなくなったことが関係しています。

 1950年代~70年代には、大学を卒業すれば、まずまずのお給料をもらえる「良い仕事」が保証され、同じ会社で働き続けることができました。しかし、グローバル化や労働組合の弱体化、多国籍企業の増加などで、大卒労働者も、雇用主の忠誠や雇用の保証を期待できなくなりました。

 その結果、「労働条件を優先した仕事選びをしても、しょせん長期的な保証を得られないのなら、『情熱』を感じられるような仕事を選ぼう」という考え方が広まったのです。

 情熱主義の研究で、米スタンフォード大学など、米国の3つの大学の学生100人にインタビューしましたが、「情熱は、良いキャリア選択を行ううえで最も重要な指針だ」と考える学生が優に7割を超えました。一方、6割以上の学生が、「お金を理由にキャリア選択をするのはよくないことだ」と答えたのです。

「長時間労働のプレッシャーに耐えて働くには情熱を感じられる仕事を見つけるしかない」と、彼らは考えているのです。若者にとっては、仕事に情熱を追い求めることが「唯一の合理的判断」なのです。「つまらない仕事」で長時間労働を強いられることは「自分の魂を企業に売り渡す」ことだ、というわけです。

 コロナ禍で労働市場の不安定さを経験した人ほど、その思いを強くしています。コロナ禍で情熱主義が衰退するのではと思い、世論調査を実施したところ、むしろ強まったことがわかりました。ファーロー(一時的な休業)や失業など、雇用の不安定さを経験した人々は、情熱を「より重要なもの」だと考えるようになったのです。

 社会が危機や不確実性に見舞われると、人は自分にとって理にかなう文化的規範に引き寄せられるものです。コロナ禍で、人々は人生の価値を見直し、「情熱を最優先すべきだ」という米国社会共通の理念に、より強くひかれるようになったのでしょう。

――米国のような皆保険制度もないハイリスクの国で、ひたすら情熱を追い求めることには大きなリスクが伴うのではないでしょうか。