2011年の夏、三菱重工業と日立製作所が経営統合の協議を進めているとの報道が駆け巡った。この時に取り沙汰された“全面的な経営統合”は幻と化したが、三菱重工が過去にも個別事業単位での統合を模索してきたのは事実だ。そして結局、12年11月末、両社は「火力発電部門の事業統合」を発表し、歴代の経営者が成し遂げられなかった態勢づくりに向けて、一歩を踏み出した。その陰には、本社を退職してまで子会社の再建に身を投じ、見事に立て直した功績で本社に呼び戻された人物がいた。三菱重工の次期社長に内定している宮永俊一副社長に、企業経営の要諦を聞いた。(「週刊ダイヤモンド」編集部 池冨 仁)

みやなが・しゅんいち
1948年、福岡県生まれ。72年、東京大学法学部を卒業後、三菱重工業に入社。約17年間の広島製作所(工場)勤務を経て、99年に同社機械事業本部重機械部長に就任。2000年に希望して、日立製作所グループとの最初の合弁事業となった三菱日立製鉄機械の社長に就任し、いったん三菱重工を退社する。その後、06年に経営再建の手腕を買われ、当時の佃和夫社長から本社に呼び戻される。08年に取締役兼機械・鉄構事業本部長となり、11年からは副社長兼社長室長に就任。現任の大宮英明社長の“右腕”として、構造改革に取り組む。愛読書は『量子力学と私』(朝永振一郎/岩波書店)。4月1日付で社長に就任の予定。
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――近年の三菱重工は、2003年の佃和夫社長(現会長)の時代から、社内の構造改革に取り組んできた。とりわけ、08年に就任した大宮英明社長の時代になってからは、事業体のあり方として“自前主義からの脱却”を打ち出してきた。大宮社長と一緒に、一連の改革路線を推進してきた宮永副社長は、なぜ改革が必要だと考えているのか。

 過去50年を振り返れば、終戦直後から高度経済成長期にかけて日本の社会・経済が伸びていた時代は、社会から必要とされるインフラ(基盤)を手掛ける我々のビジネスも一緒になって伸びてきた。だが、この10年くらいは、日本の産業界の中で、三菱重工のプレゼンスは下がっていた。

 これまで、約700の製品群を抱えて、「三菱重工は技術力があり、何でも持っているけれど、全体としての特色がない」とネガティブに言われることが多かった。だが、これからは「全体として、真の意味での総合力を発揮している」と言ってもらえるようなポジティブな条件が整ってきた。だから、経営のあり方にしても、変わっていく必要がある。

――ポジティブな条件とは、どのようなことか。

 少し遡ると、1973年に日本が「為替の変動相場制」へ移行してから、三菱重工は“輸出の拡大”に取り組んできた。だが、米ゼネラル・エレクトリック(GE)や独シーメンスなどが幅を利かせる既存の欧米マーケットには、なかなか入っていくことができなかった。