東急電鉄社長の五島慶太が
時差通勤を主張・試行し成果

 庶民がしたたかに旅行を続ける中、鉄道輸送の軍事化は着々と進んでいた。2月4日付朝刊は国鉄が設計を簡素化し、耐久性を下げた「決戦型車両」の導入や、電車の座席撤去、客車を改造した貨車の投入など輸送力増強を進めると報じており、2月15日のダイヤ改正では、東海道本線特急「かもめ」の廃止、急行・準急列車や遊覧地向け列車が削減されたほか、山手線や中央線など都心の電車の終電が約20分繰り上がった。

 遊覧電車、長距離列車が削減される中、増発されたのは貨物列車と混雑が問題化していた通勤電車だった。軍需産業を中心とした工業化と、それに伴う動員の強化で、東京の通勤利用者は激増し、通勤ラッシュは殺人的混雑を呈した。6月16日付朝刊は7月から支線、通勤路線の二等車(現在のグリーン車に相当)を廃止し、通勤時間帯の輸送力を増強すると伝えている。燃料不足、車両不足でバス路線が大幅に削減されたことも鉄道の混雑を助長した。

 この頃の「空気感」を示すのが6月、東急電鉄社長の五島慶太が東京新聞に寄稿した記事である。

 五島は「近頃の者は口を開けばヤレ非常時の、ヤレ決戦段階のと無造作にいふ。しかし彼等は一体この言葉がホントにわかっているだろうか」との小言から始まり、鉄道事業者が「乗らないで」とお願いする非常時なのに、利用者は「金さえ出せば何時でも行きたい所に行ける、勝手に荷物を送れる、という自由主義的な観念が骨の髄までしみ込んでいる」と批判している。

 彼は旅行制限に続いて、「些少の便、不便をいうべき時代ではない。即時実行あるのみである。各工場、会社、銀行、学校、官庁等は夫々始業の時間を食い違はしてこの輸送を緩和すべきである」として「時差通勤」の導入を主張している。時差通勤は1944年4月1日に導入されるが、東急本社では先行して30分の時差通勤を試行し、成果を出したそうだ。