10月14日、日本の鉄道は開業150周年を迎えた。前回の記事では大正期の輸送需要の急増に対して輸送力不足に悩まされた日本の鉄道が、多くの列車を設定するために定時運転を行わなければならなくなり、それが時間に正確な日本の鉄道を育て上げた経緯を紹介した。これまで特急などが走る幹線鉄道の「時間」にまつわる話を取り上げてきたが、今回は同時期に都市部の鉄道で起きた変化について考えてみたい。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)
路面電車の開業で変わった
東京の都市構造
都市もまた、第一次世界大戦景気で変貌した。大正期に鉄道利用者が大きく増えたと述べたが、実は1915年から1920年にかけて日本の人口はほとんど増えていない。一方、東京府の人口は約284万人から約370万人へと3割も増加している。
現在の東京都特別区に相当する東京市は当時、概ね千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区、墨田区くらいの範囲であった。東京市の人口は明治末に約200万人に達して飽和状態となったため、その後の人口増加は市外周辺地域つまり郊外で進んだことになる。
明治に入っても江戸時代の面影を残していた東京の都市構造が大きく変わるのは、1903年に路面電車が開業してからのことだ。すぐに市内全域にネットワークが広がり、1911年に東京市が買収し「市電」となる。
この頃、日露戦争を経て日本社会は大きく変貌し、都心の官庁や企業、工場、学校が大規模化し、周辺地域と都心の移動が増え始めた。しかし人や車両と道路を共有する路面電車は安全のため車両が小さく、平均速度も時速10キロ程度と遅い。そのため増え続ける輸送需要に対応できず、東京名物と言われるほどの大混雑となり問題化していた。15台も電車を待ったのに満員続きで乗れなかったとか、おんぶした赤ちゃんが窒息死したとかの逸話があるくらいだ。
欧米の大都市では路面電車の平均乗車距離は2~3キロだったのに対し、東京では倍以上の6キロ強だった。6キロといえば皇居から東京市の端までに相当する。欧米ではこのような移動は地下鉄の守備範囲だったが、日本では地下鉄整備が遅れたため、本来は路面電車が担うべきでない長距離通勤まで行わなければならなかったのだ。