戦時下で日本とシンガポールを結ぶ
「大東亜鉄道建設」の構想も

 この頃から本格的に始まったのが、防空訓練だ。例えば4月17日付夕刊は、地下鉄銀座駅で16日午前10時半から、切符売り場付近に250キロ爆弾が落下し、ガス管、水道管、地下鉄トンネルが破壊されたという想定で訓練を実施したと伝えている。この訓練は現実のものとなり、1945年1月27日の空襲で銀座駅が被弾している。

 8月27日付朝刊は、「空襲必至の現下の情勢に対応して」鉄道省が鉄道防空を強化すると伝えており、12月7日付夕刊は、開戦2年目を迎える8日に山手線、京浜東北線、常磐線などの通勤路線で乗客も参加する避難訓練を行うと報じている。

 この他、2月10日付夕刊は金属回収の一環として、登山遊覧用のケーブルカーやビルのエレベーターを廃止して全て回収し、鉄や銅を兵器に転用する方針を伝えている。「勝つためにエレベーターなくとも何のその、兎角運動不足のビルの勤め人も職場偲んでこれから『歩かう!』の鍛練戦である」との一文からは、日常と戦争の奇妙な融合を感じさせる。

 また2月28日付朝刊は、敗色濃厚の中「大東亜鉄道建設」の実現に向けてタイ政府との具体的交渉を開始したという勇ましいニュースを伝えている。これは釜山から奉天、天津、南京、広東、ハノイ、バンコクを経由して日本とシンガポールを結ぶ構想で、日本海に「日韓トンネル」を建設し、戦後に新幹線として実現する「弾丸列車計画(東京~下関間)」との連絡も構想されていた。

 現代を生きる我々はその後、1年ほどで戦局は加速度的に悪化し、本土空襲が始まることを知っているが、戦時下にあってもささやかな日常を守ろうとした人々は、まさかそんなことになるとは思いもよらなかっただろう。

 平時と戦時は明確に線引きされるものではない。じわじわと日常を侵食していき、気が付いたときには後戻りできない状況になっているのである。戦争体験の語り部がいなくなったとしても、その苦い経験は私たちも語り継ぐことができるはずだ。

 1937年から1945年まで8年にわたる戦争で日本人約300万人、そして日本の侵略によりアジア・太平洋各国で計2000万人以上が死亡したと推計されている。この過ちを繰り返さないことは、日本に生きる私たちの責務である。

参考論文 工藤泰子(2011)「戦時下の観光」『京都光華女子大学研究紀要』49号