新体制での練習当日に
阪神・淡路大震災を被災

 神戸はもともと、川崎製鉄(現JFEスチール)のサッカー部を前身とするクラブであり、岡山県倉敷市に拠点を置いていた。そこから神戸に本拠地を移し、現在のチーム名に変更。1995年にプロのクラブチームとして新たなスタートを切るはずだった。

 しかし、新体制として初めての練習を予定していた1月17日に阪神・淡路大震災が発生。その影響で、運営会社の筆頭株主だった総合スーパーのダイエーが撤退する事態に直面した。

 それでも神戸は市民クラブとして活動を続け、97年からはJリーグ参入を果たした。2001年には「キングカズ」こと三浦知良選手も加入したが、次第に経営が行き詰まり、03年12月には東京地方裁判所に民事再生法の適用を申請した。

 火中の栗を拾ってほしいと懇願されたのが、神戸市出身の三木谷氏だった。

「最初はお断りしようと思った。そこで『断ったらどうなるのでしょうか』と聞いたら、神戸市は『クラブは消滅します』と。大きな損失を出すのは分かっていたけど、引き受けさせてもらいました」

 ここで重要なのが、当時神戸の経営権を譲り受けたのは楽天ではなく、自身が設立した新企業・クリムゾンフットボールクラブだったことだ。すでに10億円を大きく超える負債を抱え、練習環境の整備も著しく遅れていた神戸の状況を踏まえると、楽天には過度な負担はかけられないと判断したからだ。

 神戸が楽天の子会社となり、経営基盤がさらに強化されたのは15年1月。それまではクリムゾンフットボールクラブを通じて、三木谷氏がまさに私財をなげうちながら神戸の経営を支えた。

 例えば神戸は14年度に22億5000万円もの特別利益を計上し、債務超過状態と前年度まで続いていた赤字を共に解消している。特別利益に関して、当時のJリーグ幹部からこんな言葉を聞いた。

「神戸さんの場合、足りないお金に対しては『お財布』がある、ということだと思います」

 幹部が言及した「お財布」が、三木谷氏の私財を指摘していたのは言うまでもない。

 ただ、業績ではなく競技の面では、私財を投じたチーム運営がポジティブな結果を導いたとは言い切れない。特に経営を引き継いで2年目の05年シーズンには18チーム中で最下位に終わり、初めてのJ2降格を喫してしまった。

 1シーズンでJ1復帰を果たすも、12年シーズンには16位で再びJ2へ降格する。三木谷氏も「降格はやはりつらかった」と振り返るが、2つのシーズンには実は共通点がある。05年シーズンは3人の監督が、12年シーズンには暫定を含めて延べ4人の監督が指揮を執っている点だ。