エルギン伯は、たちまちその建築に魅了され、トルコ政府の許可を得て、神殿の周囲にある大理石の彫像やレリーフの模造品を作った。さらに、1801年、エルギン伯は、トルコ政府要人との人脈を使って「アクロポリスでの測量、調査、発掘、さらに彫刻や碑文の持ち出しを認める」という勅許状を手にし、模造品を作るためといって彫像を掘り起こし、壁面をはぎとった。そして、それらを強引にイギリスまで運んでしまったのだ。

 彼のやったことは泥棒同然の行為だったが、トルコ政府は、異民族・異教徒のギリシア文化を重視していなかったため、この略奪行為を黙認した。

 しかし、イギリスで「他国の重要な文化遺産を盗むとはけしからん」という声が高まり、エルギン伯はついに議会で非難されるにいたった。

 結局、彼は議会に命じられるままに、コレクションを大英博物館に売却せざるをえなくなった。買取価格は、わずか3万5000ポンド。大英博物館は、ずいぶんおトクな買い物をしたことになる。

 ちなみに、大英博物館は、このコレクションのほかにも、エジプトのミイラやロゼッタストーンなど、旧植民地などから持ち帰ったものが多数所蔵されている。

ハンムラビ法典の「目には目を」は
「やられたら、やり返せ!」とは違う意味だった?

 ハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」というフレーズで知られる。

 この「目には目を」、今は「やられたら、やり返せ!」という意味で使われることが多いが、本来の意味は少しちがう。

 紀元前1770年頃のバビロニアでは、暴力行為が互いの報復によってエスカレートすることがしばしばあった。とくに、殺人に対する報復は、むしろ神聖な行為とみなされたので、報復が報復を呼び、互いに当事者がいなくなるまで繰り返された。

 そこで、ハンムラビ王は、社会秩序を維持するために、「同害報復」の原則を定めた。報復する相手は当事者のみとし、同等の処罰を与えるというものだ。つまり、「やられたら、やり返せ!」ではなく、「やられても、必要以上にやり返したらダメですよ」というのが、「目には目を」の本来の意味である。