220年、曹操が没して息子の曹丕(そうひ)が跡を継ぐと、細々とつづいていた後漢の皇帝から帝位を譲られ、魏王朝が成立する。

 だが、劉備や孫権はそれを認めず、翌年、劉備は蜀の皇帝に、229年には孫権は呉の皇帝に即位した。以後、三つ巴の戦いが続くが、一国が抜きん出ると、他の二国がそれを阻止する格好になったため、結局この中から天下をとる者は現れなかった。

 戦乱が続くなか、飢饉による餓死者があいつぎ、後漢末には約5000万人だった人口が、この頃になると、魏・呉・蜀あわせても500万人までに激減していたという説もある。

 三国時代とは、それくらい厳しい時代だったのである。

ロシアの歴史は侵略の歴史か
広大な国のはじまりは北海道ほどの広さのモスクワ大公国

 ロシアの国土面積は、約1710万平方キロメートル。日本の国土の約45倍、世界の陸地の8分の1に相当する広さを誇る。

 そのロシアの歴史は、面積わずか8万平方キロメートル、北海道ほどの広さのモスクワ大公国からはじまった。

 モスクワ大公国は当初、東方から侵攻してきたモンゴルのキプチャク・ハン国の支配下にあったが、イワン1世が他のロシア諸侯国に対する宗主権を獲得し、イワン3世の時代の1480年、キプチャク・ハン国から独立した。

 そして、同3世は、東ローマ帝国最後の皇帝の姪と結婚し、自らをローマ帝国の後継者という意味で、「ツァーリ」(皇帝)の称号を用いた。1453年、東ローマ帝国が滅び、ギリシア正教の中心もロシアへ移ってきていた。

 このイワン3世の孫にあたるのが、「雷帝(らいてい)」こと、イワン4世だ。彼は「全ロシアのツァーリ」を自認し、東方へ勢力を伸ばし、モンゴルの残存勢力から、シベリアの土地を次々と奪いとっていく。

 そして、不凍港を求めて、黒海地方にも進出する。そうして、ロシアは東、そして南へと、国土を拡大していった。いずれも、強力な勢力がいないエリアだったので、かつて東方から攻めこんだモンゴルが大帝国を築いたように、今度はロシアが西から侵略を開始して、世界最大の国を築くことになったのだ。