弱者救済に動いた曹操

 そうした曹操の弱者に寄り添うスタンスは生涯変わることなかった。66歳で亡くなる2年前には、こんな命令を下している。

「天は疫病をもたらし、人民は衰弱し、地方で起こった戦争によって、田畑は損害を受けて減少している。私はこれを、はなはだ憂慮している」

 このときも、ただ悲痛な思いを述べるだけではなく、明確な弱者救済を打ち出している。

「よって官民男女に布令を下し、70歳以上で夫も子もない婦人、もしくは12歳以下で父母兄弟のない子、および目が見えなかったり、手や足が不自由で妻子兄弟や財産のないものに対して、一生涯、生活のめんどうをみることとする」

 曹操は「恐怖を与えることで人を支配した」というイメージが強い。だが、弱い立場の人を思いやることで、人々は自然と「この人に付いていきたい」と心酔するようになっていったのではないだろうか。

厳しさと温情を使い分ける

 また、こんなこともあった。川や運河が寒波によって凍りついてしまったときのことである。

 軍船が出せなくなったので、曹操の軍は、駐留地周辺の住民に、川の氷を叩き割るように命じた。

 ところが、あまりに過酷な作業に住民が逃げてしまうという事件があった。捕らえられれば死刑というなかで、自首してきた住民がいると、曹操はこう伝えたという。

「おまえを許せば法令に違反するし、おまえを殺せば自首してきた正直者を処刑することになる。帰って見つからないところに深く隠れておれ。くれぐれも、役人に捕まらないようにな」

 あえて「許す」ことで求心力を高める。厳しさと温情を曹操はうまく使い分けていたようだ。

「屯田制」を採用して土地改革

 また、曹操はここぞというときに配下の意見をよく取り入れた。

 186年、後漢末の戦乱で、多くの土地が荒れ果ててしまう。その一方で、戦乱によって家や土地を失った流民たちもまた大量に生まれた。その様子を見て、曹操の配下にいた武将の韓浩は、一計を案じた。

 それは、荒れ果てた土地を公営のものとして管理して、流民たちに貸し与えて、耕作をさせるというものだった。

「屯田制」と言われるこの制度を、曹操は採用。家も土地もなく絶望のなかにいた流民たちだったが、役割を与えられたことで、意欲的に耕作を行うことになる。

 この妙案を実現させた結果、荒れ地を農地に変えることに成功。曹操たちは、食糧の心配をすることなく、戦を行うことができるようになった。

参謀の働きぶりを皇帝に報告

 曹操は参謀であり、8歳年下の友人でもある、荀彧(じゅんいく)から反対意見を述べられても、よく耳を傾けたといわれている。

 もっとも荀彧の最期については、曹操が自殺に追い込んだという説もあり、その真偽はいまだに議論されている。

 それでも2人がベストパートナーだったことには変わりない。前述した「徐州大虐殺」は、曹操の最大の汚点ともされる事件であり、この機に離れた家臣もいた。だが、荀彧は変わらずそばにいたばかりか、この事件を契機に曹操へのサポートを強めている。

 曹操は、皇帝にあてた手紙で、そんな荀彧の働きぶりを絶賛している。

「私は、はじめて義兵をおこして以来、天下にあまねく征伐を行うにつけて、荀彧と力を合わせて心を一つにし、国家の経略を助けてまいりました。荀彧の実績に頼って私は成功をおさめました」

 部下の反対意見をきちんと受け入れて、自分の上司に高評価を伝える――。ビジネスリーダーのお手本のような振る舞いを、曹操が行っていたことに驚くばかりである。