重光は1941年、18歳のときに朝鮮半島南端の釜山と山口県・下関を結ぶ関釜連絡船に乗り、文字通り裸一貫で日本に渡ってきた。牛乳配達のアルバイトをしながら早稲田高等工学校(現早稲田大学)を卒業。戦後の混乱期に進駐軍が持ち込んだチューインガムを見て、47年にガム事業に乗り出す。それがロッテの始まりだ。
ロッテを日本でもトップクラスの菓子メーカーに育て上げた重光は、その利益を母国である韓国に投資することで、日韓を股に掛ける事業家として成功を収める。ロッテは製菓業の他、百貨店やホテル、テーマパークから化学メーカー、ゼネコンまでを擁する韓国5位の大財閥となった。04年の誌面で81歳の重光は、これまでの軌跡を自ら語るとともに、まだまだ衰えていない事業意欲を大いにアピールしていた。
例えば、東京・葛西に建設予定だったテーマパーク「ロッテワールド東京」。東京ドーム4個分に相当する約19万平方メートルの敷地に、直径300メートルの世界最大級ドーム(屋内型テーマパーク)、ホテル、商業施設を擁する壮大な計画で、実際に環境アセスメント(環境影響評価)まで済んでいたが、01年に計画が白紙となっていた。しかし、インタビューで重光は、依然として重光直轄のプロジェクトチームが存続していることを明かし、「僕の構想通りに実現すれば必ず成功すると思う」と、江戸川を挟んで東京ディズニーリゾートに挑戦状をたたきつけるかのように、やる気満々で語っていた。重光がメディアに登場することは珍しかったため、貴重な肉声といえる。
ところが、この記事から10年後、重光は事業承継を巡って長男と次男の争いに巻き込まれ、自ら築いたロッテグループの経営権を失ってしまう。さらには横領や背任の罪で懲役4年の実刑判決を受けることにもなる。重光の半生と晩年の苦難については、ダイヤモンド・オンラインの連載「ロッテを創った男・重光武雄~成功の軌跡をたどる」および「ロッテを奪われた男・重光武雄~なぜ事業承継に失敗したのか」に詳細は譲るが、その生涯は韓国ドラマを地で行くような波乱に富んだものだった。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)
進駐軍がかんでいたガム
これは売れると確信
――終戦直後にロッテを創業し、裸一貫で日韓にまたがる巨大財閥を築いた男――マスコミに登場することはほとんどないグループ総帥の重光武雄(韓国名:辛格浩=シン・キョクホ)が、81歳にして自らの原体験、経営哲学を赤裸々に語った。その半生は、まさしく「波瀾万丈」である。
戦後、進駐軍がチューインガムをクチャクチャかんでいる姿を見てね、これは売れるんじゃないかと思った。ガムは簡単に作れるものだし、大した設備も必要ない。なにより当時は砂糖が配給制だったし、大人も子どもも甘味に飢えていたから。
もっとも、簡単に作れるものだけに、競争も激しかった。東京だけで150~160社はあったですかね。それで、次はチョコレートに目を付けた。チョコレートは菓子業界では最も売上高が大きかったし、これをやらないと中小企業から脱皮できないと考えたわけです。
ところが、チョコレートには明治(製菓)さん、森永(製菓)さんという両横綱がいる。「ふんどし担ぎが横綱と相撲を取るようなものだ」と言われて、銀行はもちろん、社内からも反対された。設備投資に16億円くらいかかったんですが、銀行がおカネを貸してくれない。どうしようもないから、商社にお願いして操業にこぎ着けました。
万が一、チョコレートが失敗した場合でも、チューインガムの利益で十分カバーできるという目算はついていた。決して誰にも迷惑は掛けない、と。自分の背丈に合った事業だけを手掛け、無理なことはしない。それが、僕の主義なんです。
――辛格浩青年が来日したのは1941年。18歳の若さだった。終戦後の47年にチューインガム製造を開始し、翌48年に現在のロッテを創業。ガムのトップ企業だったハリスを打ち負かし、64年には悲願のチョコレート市場に参入した。その後、明治製菓、森永製菓を猛追し、84年にはついに国内菓子業界首位に躍り出る。一方で、58年には実弟が韓国ロッテ製菓を設立。日本で稼いだ利益を韓国につぎ込み、流通・エンターテインメントを柱とする巨大財閥の胎動が始まる。