「神はサイコロを振らない」

 相対性理論でニュートン力学を覆したアルベルト・アインシュタインはそう述べて、古典物理学を根本から揺るがしかねない量子論の曖昧さを批判した。

 量子力学の礎を築いたエルビン・シュレーディンガーは、毒ガスが充満した箱の中の猫は、生きている状態と死んでいる状態が同時に存在しており、箱を開けてみなければ結果はわからないと、「シュレーディンガーの猫」と呼ばれる理論で、量子の動きは予測不能であることを説明した。

 遡ること100余年。ルートビッヒ・ボルツマンやマックス・プランクといった物理学者らが仮説を立て、「量子論の育ての親」ニールス・ボーアとアインシュタインの論争を経ても、量子は杳としてその全貌が明らかにされていないが、これまでの研究によって量子の特徴、たとえば小さな粒が複数の箇所に同時に存在する、本来は相容れない複数の可能性を重ね合うように同時に併せ持つ、それは確定的ではなく確率的であることなど、従来の古典的な物理学では説明できない、予測不能な振る舞いが少しずつ解き明かされてきている。

 そうした量子の特性を利用したコンピュータをつくることを提唱したのが、リチャード・P・ファインマンだ。量子力学の理論で朝永振一郎らとともにノーベル物理学賞を受賞した人物だが、1981年の講演で「自然は古典(物理学)的ではない。そのシミュレーションをしたいなら、量子力学に基づく方法を使ったほうがよい」と述べた。

 目に見える現象を扱う古典物理学の原理だけで動くコンピュータでは、目に見えない世界で起きている現象の複雑さを正確には反映できない。だからこそ、目に見えない世界の原理に基づいた計算ができるコンピュータの存在が必要である、とファインマンは主張したのだ。

 こうした概念をもとに誕生した量子コンピュータを、ビジネスで活用しようという動きが近年活発化している。しかし、そもそも量子コンピュータとは何なのかを知ることは一筋縄ではいかない。得体の知れない機械をビジネスに導入することをためらう経営者も少なからずいるだろう。

 そのような中、量子論は専門家たちがいまなおその本質を見極めようと研究を重ねている一方で、頭で理解する前にまずは量子コンピュータを一度使ってみて、そこから得られる実利を実感してほしいと訴える日本の物理学者がいる。東北大学大学院情報科学研究科教授、東京工業大学理学院物理学系教授を兼務し、かつ量子コンピュータによる企業向けサービスを提供するスタートアップ、シグマアイ代表取締役を務める大関真之氏である。

 量子コンピュータとは何なのか、そしてどのようにビジネスに活用し、可能性を広げられるのか。大関氏に量子コンピュータがもたらす未来について聞いた。

量子コンピュータで
何ができるのか

編集部(以下青文字):量子コンピュータは、複雑な計算を瞬時にこなす能力を備えた技術としてビジネスでの活用に期待が高まっています。マッキンゼー・アンド・カンパニーによると、その経済効果は2035年までにおよそ1兆3000億ドル(約195兆円)に達すると予測されています。

 日本政府の政策重点分野にも盛り込まれ、東京大学がIBMの量子コンピュータを導入、またトヨタ自動車や三菱ケミカルなどが量子コンピュータを共同利用する事業に経済産業省が42億円を支援するなど、産官学連携の動きも活発化しています。

 しかし、量子コンピュータをビジネスに活用するという認識はまだまだ一般化していません。その理由として、量子コンピュータがどんなものなのか、何ができるのかという理解が進んでいないからと思われます。

 先生は、著書『先生、それって「量子」の仕業ですか?』(小学館)の中で、量子コンピュータについて「0と1の状態を同時に持てる量子ビットという、不思議なものを持っていて、これを使って、すべての組み合わせから、1番いい結果を瞬時に見つけ出してくれるマシン」と説明されています。具体的にどのような仕組みなのか、普通のコンピュータとの違いを交えて教えてください。

量子コンピュータってなんだろう東北大学大学院 情報科学研究科 教授
東京工業大学 理学院物理学系 教授

シグマアイ 代表取締役
大関真之
MASAYUKI OHZEKI
1982年、東京都生まれ。2008年、東京工業大学大学院理工学研究科物性物理学専攻博士課程早期修了。東京工業大学産学官連携研究員、ローマ大学物理学科研究員、京都大学大学院情報学研究科システム科学専攻助教などを経て、2019年より現職。2019年4月に東北大学発のスタートアップであるシグマアイを創業。著書に『先生、それって「量子」の仕業ですか?』(小学館、2017年)、『機械学習入門』『Pythonで機械学習入門』(ともにオーム社、2016年、2019年)、主な共著に『量子コンピュータが人工知能を加速する』(日経BP、2016年)、『量子コンピュータが変える未来』(オーム社、2019年)などがある。

大関(以下略):そもそもコンピュータとは、人間がそろばんや電卓などで計算する、あるいは頭の中でシミュレーションしていたものを高速化させるツールです。

 大きな桁の計算を人間がやると時間がかかったり、間違ったりすることもあります。しかし、コンピュータは誰が触っても間違いのない計算をします。それがコンピュータというものです。普通のコンピュータは、あらゆるものを「0」か「1」だけの情報単位(ビット)で表現しています。2ビットなら「0・0」「0・1」「1・0」「1・1」と、4つの組み合わせを一つひとつ計算して答えを探します。ビットが増えるほど、計算に費やす時間も増えていきます。量子コンピュータが最終的に出す答えは、普通のコンピュータと変わりはありません。ただ、計算のプロセスが異なるのです。「量子」と呼ばれるミクロなものの法則を計算に応用しています。その一つが「重ね合わせ」という性質を応用した計算プロセスです。

 普通のコンピュータのビットが電気のオン(1)かオフ(0)かのいずれか一方の状態しか取れないのに対して、量子ビットは「0」であると同時に「1」でもあるという重ね合わせの状態で、先ほどの4つの計算も、同時に並列計算できるのです。計算した後に出てくる複数の答えの中から、「測定」という行為で確率的に答えを一つに絞り込んでいきます。