フィンセント・ファン・ゴッホの自画像風のイラストPhoto:PIXTA

古今東西の名画を天気という視点で見直すと、意外な発見に満ちている。ゴッホ《星月夜》の「悪魔の風」の正体は局地風、ムンク《叫び》には大噴火が関係している──。現役気象予報士が読み解く画家たちの驚くべき観察眼とは。本稿は、長谷部 愛『天気でよみとく名画』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。

「悪魔」の正体は局地風
ゴッホの《星月夜》

フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》1889年、ニューヨーク近代美術館フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》1889年、ニューヨーク近代美術館

 私が学生の頃に、《星月夜》を何気なく見ていた時は、きれいな夜空にただただ魅了されていたのですが、気象予報士になってから改めて見ると、「こんな空あるわけないな……いや待てよ」と思うようになりました。渦巻きも星の大きさもどう見ても実際の空にはないのですが、この激しい色使いと曲線は、気象学的にも何かを強烈に表現しているように思えてならなかったからです。

 精神疾患が悪化したゴッホは、サン=レミの療養所に入ります。フランスのサン=レミは、アルルから近く、気象条件も似た場所です。《星月夜》はその療養所で描かれました。宗教的な面やゴッホの精神世界の反映、実際の風景とのリンクなど、今なお、様々な読み取り方がなされている謎だらけの作品です。

 手紙などの資料から《星月夜》は、6月1日から6月18日までのどこかで描かれたということがわかっています。療養所の2階から、東側のアルピーユ山脈の上空を夜明け前に眺めた星と月のイメージです。実際には、この場所から教会と村の風景は見えません。ゴッホの故郷であるオランダ風の教会が描かれていることから、実像と虚像が入り混じっていると考えられています。

 そして、この夜空には様々な説があります。まず、天文学史に造詣が深いハーバード大学名誉教授のホイットニー氏が提唱した「はくちょう座が描かれている」という説。1889年6月15日から18日の夜9時頃のはくちょう座付近としています。しかし星の位置が一致せず、この時季のフランスの日の入りが夜8時30分頃であることから、9時にはまだ明るさが残り、星はあまり見えていなかったと思われるのです。

 そしてもう一つは、美術史研究者のボイム氏が指摘した「おひつじ座」説。これもゴッホが描いた日時と星の位置が一致しません。

 最後に、大阪市立科学館の石坂氏が提唱した「しし座」説。これは、背景の星空がそれぞれ別々の時刻や方角で描かれているというもの。療養所の寝室の東向きではなく、アトリエがあった西向きの位置から見た空に対応させたという説です。

 いずれの説も、残された手記や描かれた当時の星空のシミュレーションとは、月齢や星の位置が完全には一致しません。