「目立ちたくない」学生たち
その理由は生育環境にあり

――おっしゃることは、よくわかります。ただ、ずっと東大の大学院で教えてきた先生にはわからないかもしれませんが、学生たちにそういうたくましさを身につけてもらおうと、たとえば議論する力を鍛える機会を増やしたり、自由に発表する機会を作ったりしても、「目立つのは嫌だ」「意識高い系に見られたくない」と思っている学生には伝わりにくいんです。

吉見 つまり、吉見の大学論は高踏的すぎてエリートでない大学生には役に立たない、という批判ですね。しかし、今、言われた「目立つのは嫌だ」「意識高い系に見られたくない」というのは、その学生の知的能力がどうかではなく、高校までにその学生がどう育てられてきたかに由来するのではないですか?

 つまり、ここ30年間くらいの日本社会、そして教育全体に問題があって、その結果、多くの大学生からチャレンジ精神のようなものが消えてしまった。

 実際、おっしゃられた大学生の間でのたくましさの喪失は、エリートも含めて広がっている現象だと思います。直感的には、高校段階までの教育で、たとえば「国語」を「演劇」に変えてしまうとか、「社会」をフィールドワークに変えるとか、大学入試を高3の夏に前倒しし、高校と大学を実質的に連続化するとか手をいろいろ打っていくことで、ごく普通の大学生がもっと積極的になっていくようにする方法はあるはずです。

 あるいは今、世界で注目を集めている全寮制のミネルヴァ大学のように、オンライン教育を徹底させつつ、世界各地に学寮を用意し、それらの学寮のある都市を学生たちにめぐらせていく。それらの都市で学生たちをNGOだとか、インターンだとかに参加させ、現実の問題状況に直面させていくというのもひとつの方法でしょう。

 私は大学生が積極的になるために、専門的な知識が必要だとはまったく思いません。彼らが学ぶことに積極的になれないのは、社会的に困難な問題状況に直面する、あるいはその中に身を置く経験が少なすぎるからでもありそうです。

キャンパスや教室よりも
都市の路上のほうが学びは多い

――かつての日本の大学にも、学生の溜まり場的な場所がたくさんあって、そこで知的なコミュニティが成立していたのだと思いますが、今の大学は建て替えなどできれいになった一方、そうした空間がほとんど排除されてしまっています。