【究極の選択】船が遭難し、救命ボートに乗れるのはあと1人。極寒の海であなたの家族と、見ず知らずの他人が助けを求めています。どちらを救いますか?写真はイメージです Photo:PIXTA

遠くの国で起きている戦争や災害などの凄惨な状況に心を痛めても、実際に何か行動に移すのは難しく、無力感に陥ることもあるだろう。一方で、個人の価値観に基づいて公的機関の施策に対して無茶な要望を寄せる者がいるのも事実だ。大事なのは、自分の置かれている社会の中で担うべき責任を自覚し、個人として、あるいは組織の一員として望ましい行動を選択することだ。※本稿は、村松 聡『つなわたりの倫理学 相対主義と普遍主義を超えて』(KADOKAWA)の一部を抜粋・編集したものです。

私たちはそれぞれの
生活世界で責任を引き受ける

 北朝鮮で抑圧されている人、モンゴルのストリート・チルドレンやブラジルの年端もいかないギャングを、個人としての私が救う責任はない。私たちは全世界に対して責任を負うことはできない。一人の人間として、その有限な範囲での活動が私たちの責任の範囲である。有名な映画の題名になぞらえて言えば、「俺たちは天使じゃない」。

 行為の及ぶ責任の範囲には、行為者に対する空間的近さ、遠さも関係する。また、行為の及ぶ範囲には、社会としての一体性も少なからず影響する。私たち日本人にとっては、2004年に起きたスマトラ島沖地震の津波より、2011年の東日本大震災の津波により強く衝撃を受けるし、また援助を行おうとより強い思いをもつだろう。アメリカ人が、熊本の地震の被災者より、カリフォルニアの山火事での被災者に対してより身近な思いと援助を考えるのは当然なのだ。これを非難する謂れはない。

 私たち各自がそれぞれの生活世界にあって行為の責任を引き受けるならば、DVに悩む子供、いじめに苦しむ生徒、不正に虐げられる人々を減らすことができる。それが私たち個人に求められている行いではないか。夜、家々に灯がともるように、各自がそれぞれの責任の灯を職場や学校でともす。夜が明るく暖かくなる道、私たちが個人として整え、歩める道がそこにできるだろう。

 第三世界の労働者を搾取して造られた安価な製品についてはどうか。私たち先進社会の消費者がその製品を享受しているのを知るならば、個人としては不買の選択肢がある。それが個人の生活世界のうちで達成できる行為だ。それ以上に、第三世界にNGOとして参加する義務や責任があるわけではない。行為主体が政府レベルであれば、搾取の上に立つ製造品に搾取によって生じる利益と同等の税金をかける、あるいは輸入禁止や販売禁止など、別のレベルの選択肢が考えられる。

世界で起きる果てなき不幸を知るとき
感覚の鈍磨と諦めの気持ちが醸成される

 現在ではインターネットの普及によって、私たちは世界中で起きている出来事を知ることができる。世界は小さくなり、感覚的に、遠さが近さへと変わってきているのは事実である。ところが、この事実は私たちのうちに遠き人々との連帯感を生むよりも、むしろ私たちのうちで無力感を育て、世界への無感覚へと繋がっていくとシュペーマン(※編集部注/発生生物学を専門とするドイツの動物学者。1935年にノーベル生理学・医学賞)は言う。

 私たちの心のうちには、世界中どこであっても正しさの実現を求める普遍的な理性の要求が存在する。