お互い謙譲の美徳を発揮して譲りあう古き日本人の典型のような光景だが、たぶん、2人ともそうしているうちに死んでしまうにちがいない。

 こうしたクイズのような問いはいろいろとバリエーション豊富で、その1つに次のような問題がある。

 あなたは運よく他の何十人かの人々と救命ボートに乗り込めました。ボートが波間を漂っていると、救いを求める2人の人が泳ぎながら近づいてきます。1人はあなたの家族(あるいは恋人や友人)、もう1人はあなたの見ず知らずの人です。残念ながらボートは満員で、あと1人しか乗せられません。それ以上乗せるとボートは転覆します。タイタニック号の遭難と同様の冬の海(※)、海水温は零下ですから30分も海につかっていれば凍死します。あなたは誰をボートに救い上げるでしょうか。

(※編集部注/タイタニックが沈んだのは1912年4月15日だが、沈没場所のカナダ・ニューファンドランド沖は前日に寒冷前線が通過しており、当日の気温は氷点下まで下がっていた。)

 困窮している人を助ける原則を善行の原則、あるいは仁恵の原則と呼ぶ。この問題は、仁恵の原則を実際にどのように適用すべきかを尋ねている。現実には家族、恋人や友人を助けると思うが、倫理学の問いとして尋ねると、なかなか「もちろん家族です」と素直には言い出しにくい。

 倫理クイズでは、状況について多くの想像、想定を加えて肉付けする必要がある。行為主体の想定はその最も重要なものの1つだ。このクイズはどのような行為主体の責務を問うているのか。

 自らの個人としての責任はまず身近な人々から始まるから、もし問われている行為主体が個人であるならば、「家族です」と答えて何も臆する必要はない。ところが、行為主体が船員であれば答えは異なる。船員の家族が大人であるとしよう。また、見ず知らずの他人が子供であるとしよう。船員は、そのつとめとして──これは職能者の倫理と言われる──弱者から救出する責務をもっているから、この場合救うべきは他人である。

個人レベルと組織を背負う行為者とでは
引き受けるべき責任が異なる

 機構や制度を体現する行為主体の行為と、個人が主体である行為では、責任も、それに伴って着目すべき観点も変わってくる。国連の難民高等弁務官が、アフリカのサバンナを現地の難民対策本部へと向かって車を疾走していると想像してみよう。