一方、明日までの仕事の締め切りや子供の送り迎えなど、生活のあれこれに縛られて、私たちは多くの制約の中にある。普遍的な倫理的要求や期待と、個人の有限な生の間で、私たちは気持ちの調停ができずにいる。そこから、世界で起きる不幸を見るとき、感覚の鈍磨と諦めの気持ちが醸成される。そう、シュペーマンは指摘する。

 彼の言うとおりだろう。「愛の秩序」は、理性の普遍的な倫理的要求と有限な生の狭間にあって悩む人間に与えられた1つの答えなのである。

 もちろん、私たちは個人としてのみ行為しているわけではない。アフリカの飢えている子供に対する責任はない、と主張できるのは行為者が個人の場合であって、行為者のレベルが変わればその責任も変わる。

 ある制度や機構、会社や官庁など、ある部署を代表して行為するならば、行為の責任もその責任の範囲も、行為主体が個人である場合と全く異なる次元で問われる。国連の難民高等弁務官や事務総長が、第三世界で飢えている子供の存在を知っていて何もしないとなれば、責任を問われて当然であろう。

 私たちは様々な行為を日々行っている。その際、行為によって行為主体としてのあり方も異なるし、責任とその範囲も異なってくる。行為の責任を問うとき、誰が行為者か、どのような行為主体が問題になっているか、まず明らかにしなければならない。国連やWHOなどの部門の一員として、機構や制度を体現する行為主体の責任と、個人としての行為主体の責任は自ずと異なるのだ。

救命ボートに家族を乗せるか、
他人を乗せるか?

 倫理学の入門講義などでよく出される問題に救命ボートの例がある。あなたは船で旅行中に難破し、救命ボートにもう1人の人と乗っています。救命ボートは浸水しているため、1人分しか持ち堪えられず、2人が同時に助かる見込みはありません。あなたはもう1人の人にボートを譲るべきでしょうか?

 もしあなたが譲るべきであるとすれば、その相手も同じように譲るべきとなる。相手の人物の立場に立てば、同じく譲るべきと考えるからだ。