途中で飢えた難民の一群に遭遇したならば、止まって食料や水を提供すべきだろうか。行為主体が個人であれば、それが行うべき援助にちがいない。しかし難民高等弁務官の行うべき責任ある行為は、難民対策本部へ一刻も早く到着し、現地の情勢を把握したうえで指示をだすことだろう。行為者が難民高等弁務官であるとき、個人としての行為に求められるものは不問に付される、もしくは優先順位からみて後回しになる。

 一方で、個人としての行為より、機構や制度を体現する行為を常に優先して選択しなければならないとも言えない。従業員の解雇を最小限にとどめるため会社の再建に奔走している証券会社のCEOを考えてみよう。家庭を顧みる時間もなく、思春期の子供は荒む一方で、家庭は崩壊状態。よくある風景の一つかもしれない。おそらくこの人物にとっては子供のため、家族のため、CEOの辞任も1つの選択肢にちがいない。

 人間としてどのような行為の主体であるべきか、迷うときがある。「愛の秩序」から考えて、脚下照顧、まず家族へと思いをいたすべき状況もあるだろう。

 個人の行為の半径は小さい。それにともなって、おのずと責任の範囲も狭まってくる。個人のレベルで考えれば世界の不平等や不公平に責任があるわけではない。アフリカの飢えた子供と先進諸国の飽食で肥満に悩む現代人が共存するいびつな世界も、やむをえない現実である。だが機構や制度を体現している行為者のレベルでは、こうした不平等、不公平の問題に取り組み、克服すべきであろう。