読み書きができる人が少ない時代であり、力士とて大半はそうだった。しかし、その中にあって、雷電は有名な著作を2冊残している。『諸国相撲控帳』と『萬御用覚帳』である。

 これは雷電から数えて関家8代目の当主、関賢治が非常にいい状態で所蔵している。8代目の厚意により、郷土史家の田中邦文が、昭和58(1983)年に、2冊を1冊にまとめた。『雷電為右衛門旅日記』(銀河書房)である。

 それを読むと、雷電の並外れた知性と教養に誰しも驚くだろう。旅日記という形を取りながら、当時の相撲社会を描写し、その流麗な墨文字には圧倒される。ただ者ではない。

 雷電は決して感情を顕わにする人間ではなかったが、たった一度だけ、その口悔しさが出たことがあった。それは寛政2(1790)年、横綱3場所目の小野川と江戸大相撲で対戦した時のことだ。雷電の寄り倒しに、小野川がうっちゃりを掛けた。勝敗は大物言いの末に「預かり」になったのである。

 勝っていたと思う雷電は、この時ばかりは耐えられなかったのだろう。『諸国相撲控帳』に次のように書いている。

「相撲はんじょう致し、小の川もなげ候」

 大観衆の前で投げたというのに、物言いの末、預かり。これは、横綱3場所目の小野川に相撲会所が配慮したという疑念も言われる。小野川を抱える久留米藩と、横綱のメンツをつぶせなかったということか。

雷電が横綱になれなかった理由
有力な2つの説とは?

 やがて谷風が死去、小野川が引退し、誰から見ても「雷電一強」の黄金期に入った。しかし、横綱の声はかからない。後世の人間は今も、そのミステリーを解こうとしている。結果、多くの原因が挙げられるが、よく言われるのが次の2つ。

(1)自ら求めなかった説

 雷電を抱える雲州松平家と、相撲司家を抱える肥後細川家。その対立を考え、自ら横綱を求めなかった。

(2)容姿がよくない説

 大名のお抱え力士は美男が好まれたらしい。今で言う「イケメン」を抱えることは、その大名のメンツに関わったそうだ。雷電の容姿は、その条件を満たしていないというものである。

 ただ、今に残る絵を見ると、(2)は原因の決め手にはならない。

 8代目当主は、「読売新聞」(2020年11月25日付)で答えている。

「横綱の称号を求めれば大名家同士の力争いに自ら火をつけてしまう。それならばと当時、番付最高位の大関で十分と考えた。生涯わずか10個の黒星は、小結柏戸(後の大関)以外の負けは、全部平幕以下だ。たまに平幕に負けてやれば観衆は盛り上がる」と雷電の人となりを語る。