江戸時代に存在した「雷電為右衛門」という力士。当時、ぶっちぎりの強さを誇っていたが、彼はなぜか横綱にはなれなかった。今もって解けないミステリーだが、その理由を元横綱審議委員の内館牧子氏が考察する。※本稿は、内館牧子『大相撲の不思議3』(潮新書)の一部を抜粋・編集したものです。
江戸に存在した未曾有の最強力士
「雷電為右衛門」とは
「雷電為右衛門(らいでんためうえもん)」という力士の名を、ほとんどの人は知っていると思う。江戸時代の寛政から文化にかけて、もうぶっちぎりの強さで土俵を独占した大関である。
雷電を語る時、「史上未曾有の最強力士」とか「大相撲史上、古今未曾有の超強豪力士」とか、「未曾有」という言葉がよく使われる。それほど強かった。
力士生活21年。江戸本場所を36場所務め、現在とは場所数も日数も違うが、幕内通算成績は254勝10敗2分14預。「分」は引き分けのこと。「預」は勝負がつかない場合、相撲会所(今で言う協会)がその勝負を預かってしまうものである。ともに今なら「取り直し」で決着をつける。
雷電は優勝相当の成績25回のうち、全勝が7回、44連勝を含むという驚異的なものであった(『相撲大事典』)。さらには、11場所連続の優勝相当成績もある。あまりに強すぎて、得意技のテッポウ(今で言う突っ張り)、張り手、カンヌキを禁じられさえした。
ところが、今もって解けないミステリーがある。雷電は横綱になれなかったのだ。恐ろしいほどの強さでありながら、大関を27場所も務めたまま、綱を張れなかった。考えられないことだ。
私はずっと以前に、テレビの時代劇ドラマの脚本依頼を受けた。その時すぐに答えた。
「雷電を書きたい。劇的な人生を歩み、時代と真摯に渡り合った最強力士です」
するとプロデューサーは、すぐに却下。演じられる俳優がいないと言うのだ。
実際、雷電は197センチ、169キロと伝えられている。そこまで大きな俳優である必要はないが、横綱谷風や小野川や、多くの力士たちが出る必要を考えると、私も引っ込まざるを得なかった。
読み書きソロバンを習い
2冊の著作を残した雷電
雷電は明和4(1767)年、現在の長野県東御市の農家に生まれた。本名を関太郎吉といい、14歳の頃、現在の上田市の相撲道場に引き取られた。
そして、同市の長昌寺が開設した寺子屋で読み書きソロバンを習った。非常に優秀な子供で、四書五経をも学んだという。
そして、17歳で伊勢ノ海部屋に入門。後の横綱谷風梶之助の内弟子として、英才教育を受けた。その後、向かうところ敵なし。天明8(1788)年には松江藩に召し抱えられ、雲州ゆかりの四股名「雷電」を名乗ったのである。
その翌年には谷風と小野川が、同時に横綱免許を受けた。さらに翌年、雷電は西の関脇まで昇進。谷風が不在の時は、代理で興行の中心を務めるほどになっていたという。