8代目の考えは(1)だろう。私も、権力者への忖度やアンフェアがまかり通っていた社会を考えると、(1)に信憑性を感じる。

 一方、雷電は横綱制度が確立する前の力士なので、横綱に推挙されなくても不思議はないとされる説もある。「横綱」という名称が番付に載った日を「制度の確立」と考えると、それは明治23(1890)年。確立以前に同時昇進した第4代谷風と第5代小野川。そして第16代西ノ海まで、確立以前に10人もの横綱が誕生している。雷電が横綱にならない理由にはならない。

雷電を横綱にしなかった
相撲関係者による贖罪

 私は(1)に加え、雷電の未曾有の強さ、高い教養人という文武両道が、関係者に好かれなかったことも一因ではないかと思う。得意技を禁じられても勝ち、みごとな文字で巡業日記までつける。そんな雷電はうっとうしく、いわば飼い殺しにされた。それは一因にならないか。

 あの書籍2冊は、実は他人が書いたと、今も言われる。だが『雷電為右衛門旅日記』(銀河書房)の著者田中邦文は、雷電でなければ関与できない事項から、本人の手によるものだと断じている。

 興味深いのは、享和元(1801)年の日記である。

「大社にて千家様にて土俵入相撲取り申し候」

 作家の小島貞二は「出雲の国造が用意した注連縄を付けて土俵入りを披露した。『他言無用の横綱免許』だった」と推論しており、それを「読売新聞」で8代目が紹介している。

 私が不思議なのは、なぜその「他言無用」の行為を、雷電自身が日記に書いたのかということだ。横綱になれなかったのに、秘かに土俵入りをする。それは本人のプライドを傷つけないか。しかし、雷電は土俵入りをし、かつ、書いた。

書影『大相撲の不思議3』(潮新書)『大相撲の不思議3』(潮新書)
内館牧子 著

 おそらく、日記が公になるものとは考えていなかったのかもしれない。また、横綱になるべき雷電を、そうしなかった社会、関係者への抗議と怒りだったとも考えられる。

 他方、雷電を横綱にしなかったことは、後世の関係者もずっと引っかかっていたように、私は感じてならない。

 東京の富岡八幡宮の境内には「横綱力士碑」がある。明治33(1900)年に建立され、歴代横綱と新横綱の名が刻まれる。ここになぜか「無類力士 雷電為右衛門」と刻まれているのである。横綱ではない力士を、横綱碑に刻むことは、絶対にありえない。

 私は関係者の贖罪を感じる。