クリストフが鍛冶屋を見つけた。店の職人から溶接道具を借りると、自らの手で折れたフロントフォークを直し、先行していた宿敵フィリップ・ティスを追いかけていったという。

“凶暴熊”が生息する山をギヤ1枚で登らせる…「地上最強を決める自転車レース」をつくった“古き良き不適切な大人たち”クリストフが立ち寄った鍛冶屋 Photo by Kazuyuki Yamaguchi

 鍛冶屋は建物だけは現存し、その壁にツール・ド・フランスの伝説の舞台となったことを伝える石版が埋め込まれている。サントマリー・ド・カンパンをボク自身が通過するときは、必ず鍛冶屋の前で車を停める。ツールマレー峠を目指す一般サイクリストも同様だ。この小さな村で足を止めるのは過去の伝説に敬意を表するための作法だ。

 クリストフがフロントフォークを溶接した鍛冶屋を探すのは簡単だ。バニェール・ド・ビゴールという温泉町からD935号線を走ってツールマレー峠を目指し、サントマリー・ド・カンパン村に入ったことを示す標識が出たら道路の左にある。

 鍛冶屋から自転車で2〜3分上ると教会や広場のあるT字路に出る。そこを右折すればいよいよツールマレー峠への過酷な上り坂が始まる。かつてここでクリストフの往時を思わせるなにかがないかなと探してみたが、民家の居間に相当古い白黒写真が飾られていた。その一部始終を目撃していたのは1人の記者だけで、カメラマンは居合わせていなかったので、当時の模様を再現した写真なのではと思う。

 2014年にこの村を訪ねてみると、いつものようにサイクリストが思い思いにたたずむかたわらに、クリストフの大きな同像が建立されていた。右手のフロントフォークを高々と掲げ、左手にトンカチを誇らしげに握りしめていた。これまで文献で読んだクリストフとはちょっとイメージが違うなと感じた。彼は悲劇の主人公であり、涙を浮かべながら鉄の棒を溶接していたはずなのに。

マイヨジョーヌを生んだ
記者のクレームとは?

 クリストフの伝説の翌年、1915年から1918年までは第一次世界大戦で中断するが、再開した1919年に初めてマイヨジョーヌが制定された。「集団の中でだれが総合1位なのかわかるようにしてほしい」と記者からの要望だったという。