そしてホテル代はニースのさらに上をいく。アンリ・フィソール駐日モナコ公国大使が以前、「ツール・ド・フランスでモナコに行くなら、ニースに宿泊してヘリコプターでモナコ入りしたほうが安いよ。所要時間は7分なので」と親切にアドバイスしてくれたことが今でも記憶に残っている。ここはもう世界のリッチが楽しむ場所なのである。

昔のツールは
もっと温かみがあった

 ツール・ド・フランスが個人タイムトライアルを最終日に行うのは1989年以来35年ぶりだった。フランス革命200周年を祝う1989年大会は、最終日前日まで50秒遅れの総合2位につけていた米国のグレッグ・レモンが、首位フランスのローラン・フィニョンをまさかの大逆転で終幕。史上最僅差となる8秒で総合優勝を遂げた。

 そのときのフランス人のショックははかり知れず、以来ツール・ド・フランスが最終日に個人タイムトライアルを設定することはなく、パリ・シャンゼリゼは総合優勝者の凱旋パレードという位置づけでフィナーレを迎え続けてきた。今回はその呪縛を解いたレースだった。しかしポガチャルが前日まで5分14秒の大差をつけ、さらに最終日のトップタイムを記録した今回は、ドラマも生まれなかった。

 このシャンゼリゼの大逆転劇を目の当たりにしていたのが初取材のボクだった。今でも語り継がれるほどの伝説にいきなり遭遇してしまったことが、以来30年以上もこのレースを追い続けることになり、ある意味で運命だった。

 ツール・ド・フランスには変革と普遍が背中合わせで両立する。競技の高速化は目を見張るものがあり、米国のレモンの総合優勝をきっかけに科学的トレーニングが導入され、自転車メーカーや機材各社が速く走れるバイクを最先端技術で開発する。

 かつてはコース上に出身地がある地元選手を先行させて、故郷で錦を飾らせるような温かみのある大会だったが、もはやそれは通用しない。スタート直後からアタックが始まり、国際映像を独占したら知名度と高収入が得られる。割り切った考えの現代っ子レーサーばかりである。

 その一方で沿道の人たちはツール・ド・フランスを毎年の夏祭りとして楽しんでいることは変わらない。初取材のとき、クルマに乗ってコースを走っていると、何時間も前から沿道に陣取っている人たちがボクに向かって手を振ってくれた。「選手でもないのに、なんで応援してくれるんだろう?」とビックリした。