もともと能登半島地震の復旧には、色々な疑問がありました。まず、地震当日、馳浩知事が東京にいたこと。ワークライフ・バランスの時代とはいえ、厳しいことを言えば、重責を担う自治体のトップには本来プライベートな時間はありません。たとえば警視総監なら、東京23区から1日たりとも離れることは許されず、地下で携帯が通じない店への出入りは禁止。これが当然の世界です。

 しかも馳知事は、前年の元旦に東京でプロレスに参加して、議会から大反発をくらった知事なのです。そして反省もせず、今年も東京へ。知事の権限は絶大なので、本人と連絡がとれなければ危機管理は大幅に遅れます。実際、17年に千葉を襲った台風の際、2日目に地元を離れ東京に私用ででかけた森田健作知事は、議会から追及され、給与・期末手当の減給を表明し、次の選挙への立候補も断念しています。 

国に丸投げで済むわけがない
一からの復興が必要だった能登半島地震

 私も震災直後の連載記事「大阪・関西万博はどう考えても延期するしかない、これだけの理由【岸田首相に直言】」で述べましたが、石川県自体が過去に地震がないことをアピールして工場誘致などを図っていたこともあり、地震への備えが甘く、地震が起こったときの復興計画を立てるのに6日(東日本大震災では1日)もかかる始末。馳知事は震災後2カ月間、県庁に籠もりきりで現地視察もせず、県自体の復興計画もお粗末なものでした。

「人と防災未来センター」の河田惠昭所長が地元紙に語った記事によると、「国に提出した要望書が、熊本地震のときの熊本県の要望書と比較すると、まったく能動的でなく国に丸投げ感がある」ものだったそうです。

「複雑で狭隘な地形に物資を送り込むことも、断水した水道管を補修することも、そして海底が隆起する中で漁業を続けることも、相当な困難が予想されました。思い切って、一度は住民を全員退避させ、この地域を更地にしてから復興を考えるくらいの新しい発想がなければ、簡単には済まない事業だったのです」(国土交通省幹部)

「被害の大きい半島北部に入る前の地点に大規模な支援基地をつくり、そこに物資も人も集めて、短時間で被災地と往復できるような手段を作る」「海底が隆起しているので自衛隊のホバークラフト(水の上を走るので、海底の影響を受けない)を運用できる部隊を、何度も日本海側から上陸させ、物資も運ぶ」といった奇抜なアイデアがほしかった、という建設業者もいます。