味方の敗勢が決定的になるまで
島津勢は動かなかった

 慶長5(1600)年9月15日。今の暦でいえば10月20日。朝8時ごろからこの小さな台地で始まった戦いは、東西4キロ、南北2キロが決戦場となった。陣を構えたのは東西両軍約20万人。西軍に属した島津義弘は、西軍の事実上の大将・石田三成の陣からほんの少し離れた場所に陣取っていた。

 石田三成の陣所には雲霞のごとく徳川方である東軍が攻め寄せたから、島津勢はかなりの危機感を持って戦勢を見守っていたであろう。

 やがて小早川秀秋の裏切りもあり、西軍は押しまくられる。時刻はおそらく正午過ぎ。西軍の敗勢が決定的になるのは午後2時ごろで、それまで島津勢はまったく動かなかった。

 動かなかった理由は諸説あるが、そもそも島津勢は兵が少なかった。島津義弘が率いていたのはおよそ1500人。石田三成は近江佐和山19万石で6000人を動員したが、島津家は70万石の大名でありながら諸般の事情で人員を戦場に動員できなかった。

 この小兵力ゆえに、島津は二番手の備えとされていた可能性が高い。結果、目の前で西軍が崩壊し、出撃するタイミングがなかったというのが本当のところであろう。