「ライトを置く場所」に悩み抜いた
一人称でも三人称でもない人称で語る作品

――締め切りや字数制限など縛りがあるほうが書きやすいですか。

 時期によります。たとえば『正欲』は、週刊での新聞連載を終えたあとの書き下ろしで、久しぶりに締め切りも字数の縛りもない状態で書くことができたので、なんというか、小説とすごくアツアツの時間を過ごせた感覚がありました。でもそのあとはまた締め切りや字数制限のある仕事をしたくなったので、自由と制限を行き来している感覚ですね。どっちかだけだと、どっちでもつらくなると思います。

――今回の『生殖記』は、『正欲』から3年半ぶりの出版になります。やはり最初に一人称、三人称で迷われたのですか。

直木賞作家の朝井リョウが文章下手の人に教える、目からウロコの「開き直り術」『生殖記』
朝井リョウ著
小学館
1870円(税込)

 語り手の設定を考えつくまでが本当に大変で、そこを決めるまでにものすごく時間がかかりました。文字通り七転八倒という感じで、どこにライトを置けば今の自分が書きたいことが書けるのかというところで迷いまくっていました。語り手さえ決まっていないのに挿し絵の方に依頼するタイミングになってしまって、本当に生きた心地がしなかったです。

 ヒトと同様に他の種のことも書きたかったので、ライトを置く場所は、一人称でも三人称でも群像劇でも“ヒト”である限りしっくりこなくなるだろうなと感じていました。なので今回の、一人称でも三人称でもないような語り口は、自分の中でも発明でしたし、挑戦でした。

――朝井さんの作品は時代に求められているように感じます。

 それは単純に年齢の問題だと思っています。いま35歳なので、そろそろそういう目で見られなくなっていくと思います。

――そういう目とはどういう意味ですか。

 これまではどんな本を上梓しても時代と符合して見ていただいたというか、そういう文脈に入れていただけていた、みたいなところがあると思っています。

 それは内容というよりも、何歳の人が書いたっていうところが大きかったんじゃないのかな、と。
逆を言えば、今後は何を書いても、その文脈からは外れていくんだろうなと思っています。