秒速単位で進化を遂げるテクノロジーに人間はどう向き合うべきか──。この普遍的な問いは、生成AIの登場でさらに重みを増している。利便性が増すメリットと、恣意的に悪用されうる倫理的なデメリットの狭間にありながら、人間は日々AIにデータを覚え込ませている。
プラトンの『テアイテトス』、アリストテレスの『霊魂論』、ジョン・ロックの『人間知性論』などには、人は生まれた時には白紙の状態(タブラ・ラサ)であり、経験によって初めて観念を獲得する、という考え方が書かれている。AIも開発当初はタブラ・ラサの状態であると言ってよい。
人間が入力するデータには感情が伴う。検索ワードを入力するのは、興味関心に基づく行動であるがゆえに、そのデータを用いて感情分析された結果、ターゲティングの材料となる。これは、人間の意識下でコントロールされた主観的データといえる。
一方、こうした人間の感情が介在しないデータもある。それは、モノやインフラを通じて得られるデータだ。これらは事実(ファクト)に基づいた客観的データであるといえる。このデータをAIに用いれば、人間の感情に左右されない、普遍的なデータ活用になりうる。事実に基づくデータは、今後膨大なものとなる。そのデータを処理するに適しているのが、量子力学を拠り所とした技術である。量子技術の分野では量子コンピューティングや高セキュリティの量子暗号通信、センシングなどの分野で実用化に向けた取り組みが進んでいるが、なかでも次なる産業革命を引き起こすとされるのが、量子コンピュータである。特に実用化に向けて進んでいるのが、ある条件の下で最も適した組み合わせや順番を計算して求める「組合せ最適化問題」への適用だ。高度な処理能力で、環境、エネルギー、医療などの社会課題の解決に貢献すると期待されている。また、量子コンピュータはスーパーコンピュータと違って、消費電力は少ない。インターネットが私たちの暮らしや仕事、思考や行動を変えたように、量子コンピュータが人類の未来を変えるかもしれない。
その量子技術の分野で日本を牽引する企業がある。いち早く量子研究に取り組み、量子暗号通信では世界でも高い競争力を誇る。量子コンピュータ開発ではグーグルやIBMが巨額の資金を投じてしのぎを削るが、実際のところそれで何ができるのか、どのビジネス領域で効果が発揮されるのかなど、まだわかっていないことも多い。そのため経営者が量子分野へのコミットを明確に打ち出している企業は限られるが、東芝はそのうちの一社だ。社長の島田太郎氏は、シーメンスなど海外企業でキャリアを積んだのち、2018年に東芝グループに参画。2022年から経営の舵を取る島田氏は、「量子産業創出の先導役を担う」と熱意を語る。
技術や市場の先行きが不透明でリスクが高い状況は、裏を返せばあらゆるプレーヤーに大きなチャンスがあることを意味する。技術で勝ってビジネスで後れを取る負けパターンから、日本は抜け出せるのか。経営再建中の東芝は、巨大市場が見込まれる量子領域で競争力を発揮して第二の創業を果たせるのか。量子産業の潜在可能性と、東芝が見据える勝ち筋を聞いた。
残念なAIの課題を
量子技術が解決する
編集部(以下青文字):テクノロジーが長足の進歩を遂げ、ビジネスにもDXの波が押し寄せるいま、世の中はAI、とりわけ生成AIへの期待に沸き立っています。しかし、島田さんは講演などで、「AIはしょぼい」と述べて反響を呼びました。
代表取締役 社長執行役員CEO
島田太郎
TARO SHIMADA 新明和工業、シーメンスを経て、2018年にコーポレートデジタル事業責任者として東芝に入社。2019年執行役常務 最高デジタル責任者(CDO)、2020年執行役上席常務、2022年3月代表執行役社長CEO、同年6月取締役 代表執行役社長CEO、2023年12月より現職。2022年3月まで、東芝デジタルソリューションズ取締役社長、東芝データ代表取締役CEO、一般社団法人ifLinkオープンコミュニティ代表理事。現在は、一般社団法人量子技術による新産業創出協議会(Q-STAR)代表理事。主要な共著書に『スケールフリーネットワーク ものづくり日本だからできるDX』(日経BP、2021年)がある。
島田(以下略):「しょぼい」という言葉ばかりに注目が集まってしまいましたが、現在のAIには未解決の大きな課題があること、そして、その課題解決に寄与するのは量子技術であることを伝えたかったのです。私が考えるAIの大きな課題は、「データ不足」「恣意的であること」「電力消費」の3つです。
まずデータ不足の問題ですが、AIを活用するには、現在サイバー空間にあるデータだけではまったく足りません。しかし、これはIoTの本格的な普及により解消されつつあるとはいえ、人間の行動や産業活動などによって自然に生まれる実世界のデータがサイバーの世界とつながることで、GAFAがサイバー空間で独占してきたものよりもはるかに大きいデータの市場がつくられます。実世界とサイバーをITで結び付けることをサイバーフィジカルと呼びますが、これは長年にわたって実世界でモノをつくり、提供してきた私たちのような製造業にとっては大きなチャンスです。ただし、現在のコンピュータの能力では、あらゆるモノがサイバーの世界とつながって生成されるデータを処理するのには十分とはいえません。さらに、データを集めるだけでなく、分析してそこから価値を生み出すためには、現在の古典力学に基づいて設計されたコンピュータとは根本的に異なる演算原理が必要となります。
次の恣意的であるという課題は、生成AIを使ったことがあれば誰もが感じるところではないでしょうか。人間がAIにフィードバックして機械学習を強化する技術をRLFH(reinforcement learning from human)と呼びますが、これはどうしても教える側の考え方や嗜好に影響され、さまざまな文化や民族、異なる考え方の持ち主たちの価値観を反映するものにはなりません。AIに多様性や倫理の問題があるとすれば、それはAIではなく、ラーニングシステムである人間そのものの問題です。生成AIの学習データとして使われることが多いソーシャルメディアには、固定観念や狭い視野で、右か左か、善か悪かを決め付ける安易なビット思考があふれています。
最後に、消費電力の問題です。2040年にはAIが消費する電力量だけで現在の世界の総発電量を超えるという予測もあります。AIの活用が進めば進むほど消費電力量が増え、発電のために排出されるCO2が増えてしまうのは、カーボンニュートラルの動きとは明らかに逆行するものです。
AIが社会に大きなインパクトをもたらす可能性を秘めているのは言うまでもありませんが、これを最大限に実現するには、先ほど申し上げた3つの課題を何とかしなければなりません。そのカギを握ると考えられているのが量子技術で、東芝がいま最も力を入れている分野の一つです。