量子技術が
大転換を引き起こす

 DXまでの展開は道筋が描けているものの、QXに向けては量子コンピュータの実用化などの非連続的な進歩が欠かせません。あらためて島田さんが考えるQXと、その実現に向けた展望をお聞かせください。

 DXが進むと、ありとあらゆる業界や分野でプラットフォームが構築されていきます。これを量子技術でつないで最適化するのがQXです。こう説明すると「量子とは何か」とよく聞かれるのですが、私は学者ではないので先ほどお話しした以上の答えは持ち合わせておりませんし、私の関心は量子技術で何ができるのか、どのような未来を創造できるのかという点です。量子技術の産業化のためのコンソーシアム「Q-STAR」(量子技術による新産業創出協議会)が立ち上がったのも、多様なユースケースを蓄積していくためです。現在はベンダー企業に加えてユーザー企業も参加し、技術者たちが量子技術は何に使えるのか、この技術をどう実装するのか、その結果どのような効果が生まれるのかを議論しています。量子技術やビジネスの関係を表したアーキテクチャーモデル「QRAMI」(Quantum Reference Architecture Model for Industrialization)は海外の関連団体からも高い評価をいただいており、今後は世界標準に向けた提案も進めていく予定です。

 量子コンピュータについては、必ずしもすべての人が仕組みを詳しく知る必要はないというのが私の考えです。一口に量子コンピュータと言っても、ゲート方式とアニーリング方式に大きく分かれ、その中でもまたさまざまなタイプがあります。しかし、ユーザーは量子技術を意識せず、アプリケーションの裏にあるその他の量子技術も含めたすべてを、あたかも一つのコンピュータのように使えるのが理想ではないかと考えるからです。

 量子の理論を理解したうえで量子コンピュータを使うとなると、そのための時間や周辺知識が必要になるため本末転倒になりかねない。むしろ「習うより慣れろ」よろしく、多くの人たちに使ってもらうほうが普及していくということですね。

 そもそも技術の進化がすさまじく、機能もどんどん拡張されているので、そのたびに全部を理解したり、ユーザー側で何かを変更したりしなければならないのは負担が大きすぎます。量子コンピュータがどれだけ進化しても、それはQRAMIで言えば下の研究開発のレイヤーの話で、間に吸収層を設ければ、上のレイヤーのユーザーはその部分だけを更新すれば事足ります。それならば量子のことはよくわからないというユーザーでも、社会実装のための技術開発やビジネスモデル設計には関わることができます。誰もが使えるものでなければ、どんなに優れた技術でも意味がありません。裏を返せば、みんなが明日から使いたいと思うようなものをつくれば、それが世界のデファクトスタンダードになる。それをQ-STARでは目指しています。

 一部の業界を除けば、量子技術の実用化はまだ遠いと見ている経営者が多いのではないでしょうか。今後、量子技術の普及が期待される領域はどこでしょうか。

 2030年までには世界主要先進国で人口の10%、日本では約1000万人が量子技術を使うようになっているはずで、そうなってから関心を抱いても遅いのです。いまこうしている間にもどんどん新たなユースケースが生まれています。なかでも最有力なのは、先述した量子コンピュータの組合せ最適化問題への適用です。一定の条件の下で与えられた組み合わせの中から最良の組み合わせを選び出す技術で、すでに東芝でも、創薬、産業用ロボット、物流や送電の経路選択、金融取引での有効性の検証を開始しています。

 このうち創薬領域では、疾患と関連する遺伝子やタンパク質などの生体分子、いわゆる創薬ターゲットの枯渇が近年問題になっています。新たな候補を見出すためには多大な労力と時間を要する実験が必要でしたが、量子コンピュータによる計算で代替し、新薬開発のスピードアップと成功率の向上が図られることが期待されています。そのほかにも、理論上解読されることはないという究極の安全を約束する量子暗号通信、さまざまな物質量を高精度で計測できる量子センシングなどで、実用化に向けた取り組みが進んでいます。

 また、気候変動をはじめとする環境問題を解決するうえでも量子技術は必須です。量子コンピュータの省電力性への期待が極めて高いのは先ほどお話しした通りですが、エネルギーやCO2に関するデータを収集・活用するためにも量子コンピュータは欠かせません。とはいえ、ただ計算できるだけでは無意味で、それに基づいて発電や送配電のシステム、あるいは需要サイドのシステムに必要な指示を送ることで、初めて実際のCO2削減につながります。幸いなことに東芝には長年にわたってエネルギーマネジメントに携わってきた経験と実績があり、この点はサイバー空間のデータだけを扱う企業にはない実践知だと考えています。

 50年後の2070年代には、量子インターネットの時代が到来するでしょう。量子エンタングルメント(量子もつれ)という現象により、理論上はどんなに離れた場所、それこそ宇宙の果てと果てとでも通信が可能となります。これが現在のインターネットをはるかに凌駕する、リアルタイムかつ原理的に安全性が保証された量子インターネットです。

 1970年代にインターネットが誕生した当時、わずか50年で数百兆円もの巨大市場になると誰が予想したでしょうか。しかし、現実にそうなりました。この先半世紀の間に、インターネットがもたらしたのと同じか、それ以上の社会と産業構造の変化が、量子技術によって再び引き起こされるでしょう。50年後と聞くとずいぶん遠いことに思えますが、次なる産業革命に向けた動きは加速度を増しています。

 となると近い将来、量子技術と無縁の産業など存在しなくなるかもしれません。その時に懸念されるのが人材不足です。デジタルテクノロジーを理解して使いこなすデジタルネイティブ世代がいまや企業にとって不可欠であるように、「量子ネイティブ」が求められるはずです。量子人材の育成についてどのようにお考えですか。

 量子技術そのものを深く理解して、専門的に研究する人材がたくさん必要だとは思いません。東芝にもそういう社員はいますが、ほんの一握りの存在で、育成しようと思って簡単に育てられるものでもありません。むしろビジネスを創出していくためには、周辺の技術領域のエンジニアや、量子技術を使って社会課題の解決にチャレンジできる人材を増やすことが重要です。

 HTMLやJavaが開発されて誰でもプログラミングできるようになったおかげでウェブの世界があれほど花開いたように、量子技術をある程度理解したうえで、量子コンピュータを「使える」人が増えることに意味があるはずです。そのためには、学校教育に量子プログラミングを取り入れるなどして、気づいたら量子コンピュータを使っていたという環境が望ましいのではないでしょうか。

 ただし、テクノロジーの進化のスピードはすさまじいので、いま最先端と考えられている理論や研究が、10年後20年後に振り返ってみて、まったくの見当違いだったということも十分考えられます。若い人だけがデジタル人材だ、量子人材になれるなどと決め付けるのではなく、誰もが常に学び直しを続けて量子技術を活用できる人材となる。そういう時代が到来していると考えるべきでしょう。

 その一方で、既存の基礎的な技術やスキルが無価値になる可能性は小さいと思っています。たとえば、組み込み技術者です。大規模プラントから自動車、家電製品まで、さまざまなモノやシステムが正常に動作するのは組み込みソフトウェアのおかげです。量子などの先端分野に比べて派手さはないものの、組み込み技術者がいつの時代にも必要な人材であることは変わりません。彼らはモノの挙動の本質を知っているので、量子プログラミングについてリスキリングすれば、組み込み技術者は量子人材として生まれ変わることになるのです。