【前回までのあらすじ】「政界の黒幕」の老人の事務所が吹き飛んだ。戦前、総理大臣を暗殺するために隠したダイナマイトが米軍の空襲によって爆発したのだ。その現場を見に行った老人とレイ子は、焼野原になった東京で悲惨な現実を目の当たりにする。(『小説・昭和の女帝』#10)
終戦のどさくさで、加山は「大ばくち」に打って出た
加山鋭達はドアに耳を当て、複数の足音が遠ざかっていくのを聞いた。
どうやら自分が室内にいることは気づかれなかったようだ。だが、まだ安心できない。出国前に捕らえられれば、終戦のどさくさで手に入れた財産を没収されるだけでなく、命まで奪われかねない。もし、首尾良く財産を内地に持ち帰ることができれば、彼の未来は一気に明るくなるはずだった。
玉音放送から1週間後、加山と部下二人は釜山のホテル、昭和荘の部屋に身を隠していた。中にいることを感づかれないように、室内から手を伸ばしてドアに南京錠を掛けた。南京錠で施錠されているので、外からは、加山たちが外出しているように見える。
部屋には一斗缶が5個並んでいる。その中には、金や宝石が詰められていた。加山は陸軍の命令を受け、内地の軍需工場を移転させるため朝鮮に渡った。金や宝石は、軍票を使って調達した大量の建築資材と交換したものだ。軍需工場は国有化されているため、建築資材や宝石は本来、日本政府のものだ。しかし、戦争に負け、陸軍の解散が避けられなくなったいま、それを加山自身のため、ひいては日本のために使うことに良心の呵責はなかった。
加山たちは午前2時まで身を隠し、日が昇る前に船に乗る計画だった。現地の有力者に金を渡して漁船を2隻チャーターした。内地への帰還は女性や子供が優先されている。戦勝国に財産を差し押さえられる前に半島から消えなければならない加山は、いつ来るかも分からない自分の内地送還の順番を待つことはできなかった。しかも、大量の荷物とともに海を渡らなければならないとなれば、残る選択肢は密航しかないのだった。
音を立てないように一斗缶を運び出し、リアカーに乗せて港に向かう。約束通り船が埠頭で待っているのが見えたとき、彼は「ついにツキが回ってきた」と快哉を叫んだ。
船には、パイプや釘などが山と積まれていた。焼け野原になった東京では、建材が欠乏しているはずだ。うまく密輸できれば、政界に挑戦する資金の足しぐらいにはなりそうだった。
他の建築業者が加山のようにうまく立ち回れたわけではなかった。彼は8月6日に広島に新型爆弾が投下され、9日にソ連が満州国境で対日参戦した時点で、日本が数日のうちに降伏することを確信し、機械や大きな建材といった内地に持ち帰りにくい資産を、世話になっていた朝鮮人たちに惜しげもなく分け与えた。もし、日本の敗戦が予想した時期より遅かったり、勝手に機械や建材を寄贈しているのを軍部に見つかったりしていれば、ただでは済まなかっただろう。しかし、彼の読みは的中した。分け前にありついた朝鮮人たちは、彼を匿うだけでなく、密航にも手を貸してくれた。
船は予定通りに釜山港を出た。空に満月が浮かんでいた。月夜に、密航などするものではないが、彼には、丸く満ちた月も、水面に映る月影も、自分を祝福しているように感じた。
加山は青森港から上陸すると、荷物を積み替え、トラック3台を連ねて東京を目指した。
思えば上京してからは苦悩の連続だった。カネも学歴もコネもない加山にとって東京の街は非情だった。ようやく軌道に乗せた事業も出征でパーになった。大陸に渡った後は肺の病で生死をさまよった。やっと生還できたと思ったら、今度は事業家として朝鮮半島に渡ることになった。戦況が抜き差しならないところまでいった状況で、軍需工場を朝鮮に移設する工事は、死ぬか生きるか、博打のようなものだった。そして自分は賭けに勝ったのだった。
密輸したパイプや釘などの処理は、真木甚八に任せるつもりだ。建設業界に顔が利く真木老人なら、闇の物資をうまくさばいてくれるはずだ。
朝鮮から持ち帰った一斗缶の中身について、真木老人に明かすつもりはない。飯田橋の旧本社に運び入れて隠し、ここぞというときに使うのだ。すべてを真木老人に頼って政治家になったら、いつまでも頭が上がらなくなってしまう。
実は、加山は、甚八や鬼頭紘太といった右翼といわれる人物を嫌悪していた。「財閥と癒着した政治の打破」などと言っていても、所詮は同じ穴の狢でしかない。国家改造という理想を実現する手段にも疑問があった。彼らはクーデターに軍隊の力を頼った。そのため軍部に逆に利用され、結果的に、彼らが忌み嫌っていたはずの軍閥がますますのさばる状態を許した。
右翼の連中は、理想を語りながら、利権に群がったり、恐喝まがいのことをしたりして不当な利益を得る特権階級なのだ。戦後に生まれ変わる日本では、選挙で選ばれた表の人間が政治を動かすべきであり、甚八や鬼頭といった裏の人間は政界から退場するべきだと考えていた。
◇
「いよいよ戦争に負けてしまったなぁ」
甚八は、久々に顔を見せた加山にそんなことを言いつつも、活力に溢れていた。乱世にこそ活躍する人物なのだろう。やっと自分の出番が来たと言わんばかりだった。