【前回までのあらすじ】兵器工場を朝鮮半島に移設する工事を請け負った加山鋭達は、終戦のどさくさの中で建設資材などを金や宝石に換え、日本に密輸した。朝鮮から運んだ釘やパイプを売りさばくために、「政界の黒幕」の老人宅を訪れた際、加山はレイ子から渾身のビンタを見舞われた。(『小説・昭和の女帝』#11)
鬼頭が鳩山一郎に出した、結党資金提供の唯一の条件
「俺にこんなことをやらせるようでは、この戦争いよいよ負けるな」
鬼頭紘太はしみじみと思った。目の前には、空襲で焼け野原になった東京中から集めた電線や鉄くずの山があった。
本土決戦に備えるため、銅などの資材を焼け跡から集めろと海軍から命じられた。人手が足りなかったから、鬼頭はヤクザを頼った。関東屈指の顔役、関根組組長に頭を下げ、400人ほど動員してもらった。
組員たちの多くは徴兵義務のかからない四十代半ばを超えた者たちで、年寄りも少なくなかったが、断続的に空襲がある中、危ない仕事に励んでくれた。しかし、厳しい戦況を知っている鬼頭は、空しさを禁じえなかった。
彼はむしろ、いかに資産を米英から守るかに心を砕いていた。本土決戦に備えて軍部がため込んだ物資は、庶民の救済のために使われなければならない。もし、一部の特権階級が物資を独り占めし、それが国民の知るところになったら、日本が共産化しかねないと危惧していた。
内地に戻って驚いたのが、戦争孤児や未亡人の多さだった。鬼頭自身、7歳で母を亡くし、父によって親戚をたらい回しにされて塗炭の苦しみを舐めた。それだけに、損得は抜きにして、何とかしなければならないと思った。
彼は、大陸で調達した物資をダイヤモンドやプラチナに換え、航空会社を使って少しずつ密輸させていた。
そうしているうちに8月15日がやってきた。
玉音放送を聞いたときは無念だったが、「やっと終わった」という感慨が徐々に湧いた。彼からすれば、勝ち目のない戦争を続け、本土決戦でさらに多くの命を失うことは無意味であり、天皇制の存続を一層危うくする愚策だった。
失意の中で、多数の同志たちが自決した。鬼頭も命を絶とうとしたが、大西瀧治郎中将から「君はこれからの日本を背負っていけ」と止められた。
大西は航空機による特攻作戦を指揮していた。つまり、若者の命を散らした張本人だが、鬼頭にとっては、物資調達や諜報の能力を評価し、重用してくれた恩人だった。
「自分はいつ死んでもよい」という大西の覚悟と気高さに鬼頭はほれ込んでいた。台湾で敵機の強襲を受けたとき、鬼頭は血相を変えて防空壕に駆け込んだが、大西は機銃掃射と爆弾の雨の中を悠々と歩いてきた。
敗戦のけじめのつけ方も潔いものだった。鬼頭が官舎に駆け付けると、すでに割腹した後だった。日焼けした額にべっとりと脂汗がにじんでいた。大西の軍刀の切っ先は見事に腹を真一文字に割いていた。
ところが、軍医によれば「心臓がお強いから2時間は持つ」とのことだった。
鬼頭は群馬県の沼田に疎開している夫人のことを思い出した。思わず、「奥さまを呼んでくるので、それまで持ちこたえてください」と言うと、大西は痛みに顔を引きつらせて笑った。「切腹した後、かみさんに会えるからもう少し生きていようなんて軍人がどこにいるのか」。海軍の西郷さんと称された濃い眉がゆがんでいた。それでも鬼頭は群馬へ車を飛ばした。結局、大西は夕方に息を引き取り、死に目に会わせることはできなかった。
大西の最後と対照的だったのが、東條英機の自殺未遂だ。この事件は世間の不評を買った。拳銃で自らの胸を撃ったが、弾は心臓を外れ、米軍の手当てで回復してしまったのだ。銃ではなく軍刀を使えばよかったなどと、口さがない連中は言った。しかし、鬼頭は東條に同情していた。彼は、自分の心臓を撃ち抜こうとしても弾が当たらないことがあるのを知っていたからだった。
22歳のことだった。五・一五事件の後、だめ押しのクーデターを計画したが失敗し、同志が一網打尽にされた上に、自害し損ねるという失態をやらかした。計画では、発電所や送電線を破壊して東京全市を停電させ、その間に、政財界の巨頭たちを倒すつもりだった。決行の日は陸軍の大演習の当日だった。志を同じくする軍人らに加勢してもらい、あわよくば政権を転覆させる腹積もりだった。
ところが、決行直前にアジトで手りゅう弾が暴発。間もなく警官隊に包囲された。鬼頭だけが何とか非常線を突破することができ、有楽町でおでん屋を営んでいる仲間に逃亡の手助けを頼んだ。だが、その男はすでに警察と通じており、万事休すとなった。追い詰められた鬼頭は裏切り者の男を撃ち殺そうとしたが「仲間だった人間をあやめてはいけない」と思い直し、自分の胸を撃ったのだ。
◇
そして、大東亜戦争でも死に損なった。
鬼頭が、米内光政大将に面談を申し入れたのは9月末のことだった。鬼頭機関の資産の目録を持参し、その扱いを相談した。
米内は「それを受け取る海軍は、この日本になくなった。むしろ、君の部下たちが路頭に迷わないように面倒を見てやってほしい。残る幾分かがあるなら、国のためになることに使ってもらいたい」と言った。
さて、どうするかと思案していたところ、真木甚八が日本橋の鬼頭の事務所にふらっと現れた。それまで、鬼頭が市ヶ谷の真木邸に行くことはあっても、その逆は初めてのことだった。
真木老人は鬼頭の前で大演説をぶった。
「君も承知の通り、これまでの政党は、どれもこれも腰抜けでだらしなかった。今日の不幸を招いたのも政党と政治家が至らなかったからだ。彼らは本来の立場を忘れ、無定見なでくのぼうと化し、一から十まで軍の振り付け通りに踊らされてきた。これからの日本には、毅然とした力強い政党が必要だ。政治家もまた、新生日本にふさわしい人間が選ばれるようにせねばならん」