価格転嫁で企業利益も増加
物価と賃金の悪循環が起きる

 では、賃金上昇率と物価上昇率の関係はどうなっているだろうか?

 仮に消費者物価が賃金上昇率と同率だけ上昇したとしよう。賃金支払い総額と家計消費支出はほぼ同額(約300兆円)なので、これだけで企業のコストの増加分と最終財価格の上昇分がつりあうことになる。

 しかし実際には、家計が購入する消費財以外の最終財の価格も上昇するだろう。つまり、価格上昇の負担が分散される。家計消費はGDPの半分程度だから、消費者物価の上昇率は賃金上昇率の半分程度で済むことになる。そうであれば実質賃金は上昇するはずだ。

 しかし実際には、賃金だけでなく企業利益も増加しているのだ。それが転嫁されて最終財価格を上げている側面もある。このように事態は非常に複雑だ。

 ただ最低限言えることは、名目賃金が上がったとしても、実質賃金が継続的に上がらない限り、事態が好転したとは評価できないということだ。

 連合は25年の春闘で、中小企業の賃上げ率を6%にするとしているが、それが実現すれば、上で述べたように結局は労働者の負担も増すことに注意しなければならない。

 このプロセスには、さらに大きな問題がある。それは物価と賃金の悪循環が起きることだ。つまり物価の上昇が賃金の上昇を引き起こし、賃金上昇がさらに物価の上昇を招く危険がある。

石油危機の経験を振り返る必要
過度な賃上げ抑制、省エネ投資進める

 今回の事態は、当初は外的ショックによって生じたインフレという意味で、1970年代に生じた石油ショックと似ている。

 この時、先進工業国はどこも深刻な影響を受け、それが長く続いた。それに対して日本は比較的早くその影響から脱出し、その後、欧米諸国を上回る成長を実現した。

 なぜこのような違いが起きたのか? いま、70年代の経験を振り返ってみることが必要だ。

 73年の第1次石油危機によって石油価格が急騰した。石油をエネルギー源として大量に消費していた先進工業国では、輸入コストが大幅に増加し、広範囲にわたる製品やサービスのコストが上昇した。生活費の高騰に直面した労働者は賃金の引き上げを要求した。

 76~79年には事態はある程度回復したが、79年に第2次石油危機が起きた。

 この過程で賃金が大幅に上昇し、これが問題をさらに悪化させた。これは、賃金の物価スライド制が普及していたアメリカ、フランス、イタリアでとりわけ顕著に見られた現象だ。

 賃金の物価スライド制は、インフレが進行する中で実質賃金の目減りを防ぐための制度だ。しかし、石油危機のような外的ショックによって物価上昇が引き起こされた場合には、生産性の伸びを上回る賃上げをもたらしやすく、また、販売価格転嫁が可能な場合には、インフレ率をさらに高める危険がある。

 イギリスでは制度的な賃金の物価スライド制はなかったが、インフレが進む中で、実質賃金確保を求める労働組合側の要求が反映し、高い賃上げが行われた。労働組合が強力なストライキを展開し、多くの産業で生産が停止する事態に至った。そしてオイルショック以後のイギリスは、物価と賃金の悪循環によって経済が疲弊した。

 他方、終身雇用制が普及していた日本では、労働者も企業の一員であるという意識が強く、過度な賃上げが抑制され、企業も省エネ投資などを進めた。このことが、石油ショックの影響を欧米諸国に比べて最小限に食い止められた大きな要因であったと考えられる。

 われわれはいま、この時の経験を振り返って、そこから教訓を得るべきだ。

 経済の好循環実現に賃上げは重要だが、それを価格転嫁に依存するのではなく、生産性を高めることによって実現することが必要だ。

(一橋大学名誉教授 野口悠紀雄)