仕事は好きなことから選ぶべき?→漫画家ヤマザキマリ氏の答えが正論すぎて、ぐうの音も出ないヤマザキマリさん 撮影/加藤昌人、ヘアメイク/田光一恵(TRUE)
*本稿は、現在発売中の紙媒体(雑誌)「息子・娘を入れたい会社2025」の「Visionary Leader 『多様性の時代』生き方、働き方」を転載したものです。

企業でも個人でも多様性がますます尊重される時代に入っていく中で、どのように生き、働いていけばよいか、経験豊かな5人のプロフェッショナルに聞いた。2人目は、『テルマエ・ロマエ』などのヒット作で知られるヤマザキマリ氏。漫画家としての歩みや、幅広い経験に裏打ちされた独自の人生観を聞いた。10代、20代の頃の苦悩や、子育てを通して気づいた仕事観など、インタビューの前編をお届けする。(取材・文/木俣 冬)

20歳前後の頃は
暗闇の中をさまよっていた

 大ベストセラー漫画『テルマエ・ロマエ』の著者・ヤマザキマリさん。エッセイの執筆も多く、そこに書かれた体験は型破りで冒険心に満ちている。だが、多くの若者が進路に悩む20歳前後、ヤマザキさんは暗闇の中をさまよっていた。

「私の青春は暗黒時代そのものでした。でも、そのときに体験したつらさや苦しさをたくさん蓄えておいたからこそ今がある。心の闇は人間を成熟へと導くのです」

 漫画の神様・手塚治虫が亡くなった1989年2月、21歳だったヤマザキさんは病室でそのテレビニュースを見ていた。なぜかこのときのことを鮮明に覚えているが、のちに『テルマエ・ロマエ』で第14回手塚治虫文化賞の短編賞、とり・みき氏との共著『プリニウス』で第28回手塚治虫文化賞大賞を受賞することになる。

「17歳で大検を取って単身イタリアの美術学校に留学、苦悩と貧困と向き合う日々を過ごしていた最中、久しぶりに日本に戻ったときのことでした。自動車事故に遭い重傷を負ってしまったんです」

 けがが治ってイタリアに戻っても、もがく日々は続いた。「自分はいったい何をしているのか。絵など描いて何の意味や価値があるのか」と袋小路に陥った。