【前回までのあらすじ】A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監された鬼頭紘太は、極刑に処されることを覚悟していた。だが、東条英機らの刑が執行された直後に突然、釈放される。(『小説・昭和の女帝』#17)
命拾いした元A級戦犯容疑者に課された「密命」
巣鴨プリズンから出獄した鬼頭紘太が真木甚八の屋敷に到着すると、庭のほうがざわついていた。遺族らが何やら揉めているようだ。
真木老人の葬儀の当日、築地本願寺から帰宅した子供らが、喪服のままで相続を巡って言い争いをしているのだった。
真木老人には、別れた妻や妾が産んだ5人の子供がいる。その子供らが庭に埋められた財産を掘り起こすと息巻いていた。レイ子や粕谷英雄が押しとどめているが、子供らの興奮は収まらなかった。
葬式の直後に何をやっているのか――。鬼頭の胸にふつふつと怒りが湧いてきた。
「おい、お前ら、ここに一列に並べ!」
そう怒鳴ると、その剣幕に気圧されたのか、子供らはおとなしく指示に従った。粕谷とレイ子は突然の鬼頭の登場に戸惑った様子だったが、やがて子供たちの脇に何となく並んだ。
「よく聞け、お前ら。この庭に埋まっているものはダイヤモンドでもプラチナでもない。海軍のラジウムだ。うかつに扱うと放射線を浴びるんだ。そんなものを兄弟で分けるなどもっての他だ。お前たちの汚い根性をたたき直してやる。歯を食いしばれ!」
そう言って、全員を平手打ちした。
久しぶりに、暴力を振るった――。鬼頭は自分の足が震えているのに気づいた。これが俗世か。巣鴨プリズンの3年間、死刑を覚悟していた彼は、カネや権力欲とは無縁の生活をしていた。それが突然、娑婆に放たれ、欲望むき出しの現場に出くわした。それを醜いと思う一方で、不思議な高揚感を味わってもいた。いうなれば、生存競争の興奮だった。
政財界には、自分を快く思っていない人間が多い。こちらから攻めていって確固たる地位を勝ち取らなければつまはじきにされてしまう。もう一度仕切り直して、自分の足場を固めなければならない。幸運にも、生きて拘置所を出られた。この命を無駄にするわけにはいかなかった。
鬼頭は、子供らを座敷に座らせ、あらためて霊前に線香を上げさせた。それが終わると、彼自身も静かに手を合わせた。
そして、まず粕谷とレイ子を別室に呼んだ。
「しかし、君たちがいて、このザマとは情けないじゃないか」
鬼頭が言った。
「申し訳ない。しかし鬼頭さん、よく生きて帰ってきましたね」
「偶然拾ったような命です」
粕谷は2カ月前に組閣された第二次吉田内閣で建設大臣に昇格していた。それでも、ついさっき子供らと一緒にビンタを見舞われていた。大臣が頬を張られるなど前代未聞だろう。
「生前、真木先生に変わったことはありましたか」
「隠退蔵物資と昭電疑獄で非難されていましたが、驚くようなことはありませんでした」
粕谷が無難な答えをした。
粕谷は鬼頭より20歳以上年上だったが、鬼頭の口調からは年長者への敬意は感じられなかった。
レイ子は、鬼頭に言うならいましかないと意を決し、自分が甚八の子として認知されたこと、現在は、粕谷の秘書として働いていることを告げた。ただし、粕谷の子を産んだことは言わなかった。
「それで、お二人は今後どうするつもりですか」
「これを読んでください。真木先生の遺言状です」
甚八が医師兼顧問弁護士の藤本に口述筆記させた遺書を手渡した。もちろんレイ子向けの秘密の遺書があることは明かさなかった。
鬼頭は遺書を無遠慮に読み、「なるほど」と言って黙った。遺書には財産の分配方法が書かれていたが、その総額は多くなく、鬼頭の取り分はゼロだった。つまり、遺産を隠したことを疑われてもおかしくない代物だった。鬼頭が何を考えているのか、表情からは読み取れなかった。
「遺言状については承知しました。異存ありません。私は真木先生に資金を提供してきましたが、それをいまさらどうこう言うつもりはない。しかし、このままでは、真木先生が日本政治のために果たされた功績が、上手く引き継がれないのではありませんか。どうも、用意されている筋書は、真木先生にしては詰めが甘いようです。レイ子さんはこれから、本格的に真木先生の娘として世に出ることになる。しかし、いまのままでは必ず綻びが生じますよ」
レイ子が鬼頭の意図を測りかねていると、彼は重要なことを思い出したように言葉を継いだ。
「ところで、政治資金の記録はどうしましたか」