【前回までのあらすじ】レイ子は、愛人関係にあった「政界の黒幕」真木甚八の“娘”として永田町で働き始めた。『小説・昭和の女帝』の第三章(#18~#28)では、自民党の選挙を仕切るまでになるレイ子の隆盛と、彼女の心の葛藤を描く。(『小説・昭和の女帝』#18)
法事で明らかになった鳩山政権における「序列」
10日前に内閣総理大臣に就任したばかりの鳩山一郎が、杉並区の霊園で、線香を手向けていた。「政界の黒幕」といわれた真木甚八の七回忌で、80人もの国会議員が参列している。
忙しい国会議員が、列を成して墓参するのには理由がある。鳩山が代表を務める与党、日本民主党の前身である日本自由党の結党資金を甚八が提供した経緯があるからだ。しかも、甚八の遺産を受け継いだ娘のレイ子から、少なくないカネがいまだに国会議員らに流れている。
鳩山の後、日本民主党の総務会長の三木武吉が合掌した。吉田茂の自由党から与党の座を奪い取った参謀である。次に、鳩山内閣で農林大臣に就いて間もない河野一郎が続くとみえたが、「お先にどうぞ」というように順番を譲った。それで政治家の列に割り込んだのが鬼頭紘太だった。43歳になった鬼頭は坊主頭で、黒い服を着ている。合掌すると暴力団の組長にしか見えなかった。
日本自由党の結党資金として、鳩山にカネを渡したのは甚八だったが、その資金の出所は鬼頭だった。鬼頭は、甚八から請われ、戦中に大陸で得た7000万円の現金とダイヤモンド、プラチナなどを提供したのだった。
その後、鬼頭はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに3年間にわたり収監された。釈放されたのは、甚八の葬儀の当日だった。娑婆に出た彼は、朝鮮戦争に備えて物資の確保を急ぐアメリカに、隠していたタングステンやラジウムを提供した。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、彼はアメリカを手玉に取るようになり、「レアメタル王」「アメリカとつながった右翼の大立者」としてカネと権力を手にしていった。
鳩山が吉田内閣を打倒した、その裏でも鬼頭が暗躍した。鬼頭は、吉田派の支柱だった広川弘禅を「珍しい魚が釣れたので食べに来ませんか」と自宅に招き、鳩山や三木ら反吉田派の首脳と会談させた。その模様を新聞が写真付きで報じたのを見て吉田が激怒し、広川を裏切者扱いしたことで吉田派が分裂。鳩山政権が誕生するきっかけになった。甚八亡き後、「政界の黒幕」といえば鬼頭のことを指すようになっていた。
甚八の七回忌に駆け付けた記者が、墓参した政治家の名前、線香を上げる順番をメモしているのは、それが永田町の序列そのものだからに他ならなかった。レイ子は法事を取材させることに後ろ向きだったが、鬼頭が勝手に墓参りの情報をリークしたのだ。
吉田内閣を支えた自由党の面々は、レイ子以外には誰も墓参りに来なかった。吉田派の最高幹部である佐藤栄作、池田勇人はもちろん不参加。レイ子が秘書として仕える粕谷英雄は本堂での法要には参列したものの、墓参りには姿を見せなかった。粕谷は甚八の子飼いだったが、吉田内閣では外務政務次官、建設大臣、党総務会長などに抜擢され、いまや吉田派の主軸になっていた。党内の目を考えれば行動を自粛するしかなかった。
ただ、吉田派の中でもレイ子は特別だった。吉田政権当時、自由党幹部7人が毎月、大磯の吉田邸に集まる会合に出席が許されるなど中枢にいた。しかし、甚八の娘で、親族代表である彼女が法事を催すことに異論を差し挟む者などいはしなかった。
政治家の中には、参列者にお辞儀をするレイ子をじろじろと見る者が少なからずいた。彼女は、資金の豊富さと面倒見の良さ、そして、その美貌によって名を馳せていた。そもそも昭和20年代に、女性の公設秘書などほとんどおらず、それだけでも目立つ存在だ。議員事務所に女性がいたとしても、それはお茶汲みをする私設秘書だった。週明けの月曜には、「喪服姿の真木レイ子はどうだった?」などと、議員や秘書たちが噂話に花を咲かせるに違いなかった。
好奇の目を受け流して、彼女はお辞儀を繰り返した。その日は小春日和だったが、さすがに80余人が線香を上げるのを待っていると体の芯が冷えてくる。
列が終わりに近づき、ようやく会食の席に移れると思ったとき、鬼頭が近づいてきて耳打ちした。「終わったら、等々力に来なさい」。彼女は暗澹たる気持ちで小さく頷いた。それは鬼頭邸への呼び出しを意味していた。