【前回までのあらすじ】「昭和の女帝」真木レイ子は、パートナーである自民党幹事長、粕谷英雄と大喧嘩をし、アメリカにいる恋人の下に身を寄せることになった。レイ子の「家出」の行方は。(『小説・昭和の女帝』#27)
レイ子が、アメリカの墓地に入りたいと思った理由
レイ子がワシントン・ナショナル空港に降り立ったのは4月4日のことだった。日本を夕方に発って20時間の移動中、ほとんど眠ることができず、ようやく到着したワシントンの現地時間は午前11時――。時差ぼけを覚悟しなければならなかった。
訪米は、アメリカからの原子力平和利用使節団の受け入れについての打ち合わせや、発電施設視察のための出張以来、2度目だったが、一人きりでの長旅は初めてだった。さすがに疲れていた。
しかし、空港でタミヤ自動車専務の田宮浩二の顔が見えたとき、疲れや不安は吹き飛んだ。田宮が出張する前から数えて、会えない期間は1カ月にもなっていた。
「よく来たね」
田宮は彼女を抱きとめて言った。彼の洋服からは日本国内とは違う香りがした。空港の到着ロビーで人目をはばからず抱き合った後、彼は彼女を黒塗りのセダンにエスコートした。彼女が持ってきた2つのスーツケースをトランクに押し込むと、クルマは滑るように走り出した。
ポトマック川河畔には、日本が贈呈した桜の花が咲き誇っていた。
「羽を伸ばすには、ちょうどいい季節ですよ」
「本当に……。ところで桜並木は戦争の後に植樹した割に、大きく育っているんですね」
「ああ、僕も初めそう思ったんですが、贈呈したのは1912年だそうです。こんなにきれいな桜をプレゼントした相手とわれわれは戦っていた。戦争中も、桜は構わず咲いていたと思うと何だか複雑な気分です。ところで、お腹は空いていますか」
「いいえ。機内食を残さず食べてきましたから」
彼女がそう言うと、田宮はまぶしそうに彼女を見た。
「じゃあ、まずはホテルにチェックインしましょうか」
「どちらかというと、散歩でもしたい気分です。早く時差ぼけを治したいので」
「それならいい場所がある。橋を渡る前にアーリントン墓地に行ってみませんか」
田宮とのデートは驚くような展開になることが多い。何せ、初めてのデートは富士の裾野の工場から、いきなり伊豆半島にドライブし、そのまま温泉宿に泊まることになったのだ。彼の提案はいつも唐突で少し変わっていたが、彼女には新鮮だった。
戦争犠牲者が眠るアーリントン墓地は、広大な土地に、無数の墓石が並んでいた。芝生の緑と青空のコントラストがまぶしい。
「ここはアメリカ人にとって特別な場所だから、ビジネスをやる僕みたいな人間は、一度は訪れるべき場所なんだ。アメリカに来たばかりなのに、墓地に付き合ってくれて本当にありがとう」
田宮は興奮気味に、行くあてもなく歩き出す。
「ここに来ると、アメリカという国が世界中で血を流して、強大になっていったことを実感するね。僕ら日本人にとって戦争といえば太平洋戦争だけれど、彼らはヨーロッパでも中東でも戦っている。とんでもない国だ。最近アメリカ国内では、ケネディ大統領がベトナムへの派兵を拡大するといわれている。密林での戦いで、またたくさんの兵隊が命を落とすことになる……」
彼は感慨深げに言うと、「パールハーバーの犠牲者の墓はあるかな」とつぶやいて探し始めた。しかし、墓石があまりに多く、なかなか見つからない。途方に暮れていると、背後から蹄音が聞こえた。濃紺の制服を着た衛兵が4人、馬車に何かをゆっくりと引かせていた。荷台の上にあるのは星条旗に包まれた棺だった。
レイ子と田宮は、遺族に付き添われることもなく埋葬場所へと運ばれる、名も知らぬ死者に思わず手を合わせた。
彼女はふと、自分もこんな墓に入りたいと思った。自分が死ねば、真木甚八が眠る杉並区の墓に納められることになる。そこは真木家の墓だが、レイ子と彼女の母の他に入る予定の者はいない。大きな墓に、血のつながりのない父と娘、そして、父の“妻”としてレイ子の母が入るというのは、違和感があるどころか、何かに対する冒とくのようにすら感じた。アーリントン墓地のように個人の墓ならば、そういった家のしがらみはない。家族を持たない自分にはおあつらえ向きのような気がした。こうした思いは、田宮家という隆々とした家の一員である彼にはきっと理解できないだろう。
「浩二さん。ちょっと疲れたから、あそこの日陰のベンチに座りましょう」
「ああ、いいね」
二人は並んで座った。昼間から肩を並べていられるのも、異国ならではだ。レイ子はうれしい気持ちになったものの、やはり先ほどからの寂しさは消えなかった。東京にいるとき、彼女の周りにいる国会議員やその秘書、省庁の幹部たちはほとんどが妻帯者で、しかも相手は旧華族や財閥といった名家のお嬢様だ。家に帰れば絵に描いたような幸せな家庭が待っている。
「レイ子さん、どうしました。大丈夫ですか」
「ええ。大丈夫です。ちょっと感傷的になってしまっただけです」
「そうか。ボスと喧嘩して出てきたんですもんね」
そう言う田宮こそ、まさに恵まれた家系の妻帯者なのだった。その家庭が幸せなのか、形だけのものなのかは全く聞いたことがない。彼の額で、木漏れ日の影が揺れていた。アメリカ出張中に、少し日焼けしたようだった。
彼は自分のことを話さないし、レイ子のことも聞こうとしない。婚歴があるのかすら尋ねられたことはないし、そもそも出自について質問されたことがない。
あるとき、彼女は実家が新聞店だったことをさりげなく伝えたことがあったが、さらりと流されてしまった。新聞店の家に育ち、大学も出ていない娘が、なぜ自民党幹事長の秘書を務めているのか、田宮は不思議に思わないのだろうかと、不信に近い感情を抱いた。
成り上がった人間には一つや二つ人には言えない過去があるものだ。例えば、レイ子の知り合いの娘は進駐軍の将校のオンリー(特定の男性を相手にする愛人)になった。彼のつてで米軍の横流し物資を手に入れ、闇市に流して稼いだ。そのカネで銀座にキャバレーを出店し、高級クラブに発展させた。
でも、彼女は相当ましなほうだ。終戦直後は「特殊女性」と呼ばれるオンリーやパンパン(不特定多数の駐留兵などを相手にする娼婦)が街に溢れた。そのほとんどが生きるための身売りで、家畜のような扱いをされて心身を病む女性が多くいた。
レイ子が参加していた光輪閣や軽井沢などでのパーティーも、紳士淑女の仮面をはぎ取れば淫らな集まりだった。そういったパーティーで口説いてくる将校や外交官はいたが、レイ子は彼らを軽くあしらうことができた。彼女が真木甚八の娘で、GHQのG2(参謀第2部)部長のチャールズ・ウィロビーと懇意なことは有名だった。それを知らない男が誘ってきても、甚八やウィロビーの名前を出せばすぐに諦めた。そういうわけで彼女がアメリカ人の相手をさせられるようなことはなかったが、オンリーやパンパンといわれた女性たちと同じような経験をしていても全くおかしくはないのだった。
むしろ彼女は、パンパンよりも後ろ暗い行為をしてきたともいえる。敗戦国の女がやむにやまれぬ事情で戦勝国の男と寝ていたのと違って、彼女は戦争に敗れる前から、ある意味では自ら進んで政界の黒幕の老人に抱かれていたのだから。
「浩二さんは、私の過去のこと。例えば、どこでどう育ったかとか、どうして政治家の秘書をしているのかとか、知りたいですか」
レイ子は思い切って、気になっていたことを聞いた。
「そうだなあ……」田宮は、少し考えて言った「気にならないことはないよ。正直に言えば、君のことはもっと知りたい。でも、僕は日ごろから、過去のことは積極的に聞かないようにしているんだ。ビジネスでもそう心掛けている。その人の出身や過去の出来事より、今そのときに何を言うか、どう振る舞うかが重要だと思ってね」
レイ子は「おっしゃる通りかもしれません」と口にして、でも、やはり寂しいような、田宮とは分かり合えないような気がした。それが、住む世界が違うからなのか、田宮の独特のパーソナリティーのためなのかは分からなかったが……。
「つまりね。僕は今の君が好きなんだ。本当に素敵だと思う」
田宮特有のストレートな言葉に、彼女は「また始まったな」と思いつつも、胸の高鳴りを抑えられなかった。この人と一緒になれたらどんなに幸せだろうと思い、すぐに現実を思い返して胸を締め付けられる。もう何度も繰り返したことだが、いつまでたっても彼の甘い言葉に不感症になることはないのだった。
空を見上げると、2機のヘリコプターが市街地の方へ飛んで行った。
「さすがに、少しくたびれたね。パールハーバーの犠牲者を探すのはよそう。無名戦士の墓にお参りして、ホテルへ帰ろう。君が何か話したいことがあるのなら喜んで聞くよ」
彼女は、「そうですね。そうしましょう」とだけ答えた。
◇
田宮が投宿しているホテルは、ホワイトハウス近くのウィラードだった。