小説・昭和の女帝#28Illustration by MIHO YASURAOKA

【前回までのあらすじ】「昭和の女帝」真木レイ子は、自民党幹事長を務める粕谷英雄と大喧嘩をし、家出のような形でアメリカにいる自動車メーカーの御曹司の下に身を寄せた。ワシントンで、レイ子は恋人と二人きり、夢のような生活に溺れるが……。(『小説・昭和の女帝』#28)

自動車メーカーの御曹司から突然届いた手紙

 その手紙が届いたのは5月のゴールデンウイーク明けのことだった。タミヤ自動車専務の田宮浩二から連休明けに帰国すると聞いていたレイ子は、胸を躍らせてエアメールを開けた。

 しかし、そこには思いもよらぬことが書かれていた。

拝啓
 青葉がまぶしい季節となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
 桜咲くワシントンで二人きりで過ごした日々を懐かしく思い出しています。空港で別れて以来、あなたとの毎日が続くのなら、どんなに幸せなことかと考えない日はありませんでした。
 しかし、この手紙を書きながら僕の心は塞いでいます。今日は、自分の社会的な立場を踏まえて下した苦渋の決断を伝えなければいけないからです。
 今後、レイ子さんと二人で会うことはできません。これからずっとです。死ぬほど苦しいことですが、他にやりようがないのです。田宮家に生まれた僕は、タミヤ自動車に身を捧げるしかない。僕は、社員とその家族の生活を心配のないようにする責任がある。自分の気持ちを優先して、社運を懸けたプロジェクトを駄目にするわけにはいかないのです。
 いずれこうなることは何となく分かっていました。だから、二人の将来の話はできなかった。無責任な僕を許してくれとは言いません。ただ、レイ子さんを愛する気持ちに嘘偽りはなかった。そのことだけは分かってくれると救われる気がします。
 レイ子さんがこれからもお元気で、お美しく、ご活躍されることを祈っています。
敬具
 昭和36年5月1日
田宮浩二

 レイ子はその手紙を、出勤前に読んだ。

 彼女の中に湧き起こったのは、哀しみではなく怒りだった。

 田宮は、レイ子との関係を絶たなければビジネスの芽を摘むと、誰から脅されたのではと疑わざるを得なかった。「社運を懸けたプロジェクトを駄目にするわけにはいかない」という表現がそれを示唆していた。

 そして、そういった脅迫をする人物としてまず思いつくのがアメリカ政府と鬼頭紘太だった。

 彼女は、CIAの息が掛かったニューヨークの海運会社の社長に電話した。社長のケイ・イノウエは日系2世の大物で、朝鮮戦争の開戦前に来日して、タングステンなどを調達していた男だ。当然、東アジアの戦略物資に詳しい鬼頭とは裏でつながっていた。

「ハロー。イノウエさん。ごぶさたしています。お元気でしたか」

「レイ子さん、久しぶりです。おかげさまで日米間の貿易が増えて、ビジネスは好調です。今日はどんなご用件ですか」

 イノウエのあまりにあっけらかんとした話しぶりに、レイ子はどう探りを入れるものか思案した。

「実は、最近、タミヤ自動車の創業家の方と知り合いになりました。もしかしたらイノウエさんの会社で、日本からの自動車の輸出をお手伝いされるんじゃないかと思いまして、何かお役に立てればと思った次第です」

「さすがレイ子さん、勘がいいですね。その通り、自動車の輸入は当社にとっても大きなビジネスチャンスです。日本からクルマや自動車部品をどんどん運びます。そういえば……、レイ子さん。最近ワシントンDCにいらっしゃったみたいですね。アメリカ政府も私も、レイ子さんが日米の懸け橋として引き続きご活躍されることを大いに期待しています」

「ありがとうございます。タミヤ自動車の件、上手くいきそうでよかったです。今度訪米するときには、ニューヨークのオフィスにお邪魔するようにいたします。イノウエさんやご子息が日本にいらっしゃるときにはぜひお知らせください。ご案内させていただきますので」

 形式的なやりとりをして電話を切ると、レイ子はアメリカからタミヤ自動車に圧力があったことを確信した。おそらく「クルマを輸出したければ田宮浩二の女性関係をきれいにしろ」などと脅したのだろう。

 アメリカにとって自民党の中枢にいるレイ子は利用価値が高い“友人”の一人だ。しかし、田宮との不適切な関係が週刊誌などに書き立てられれば、彼女の仕事に影響が出ることは避けられない。男の政治家が浮名を流すと「男の勲章」と言われるのに、女性が同じことをすれば一生拭えぬ汚名を着せられる。

 圧力をかけたアメリカも、それに屈した田宮も許すことはできなかった。もし、この脅しに鬼頭が関わっていたとすれば、これまでで最もあからさまな彼女のプライベートへの介入だった。彼女は、権力者の手下として生きるしかない自分の運命を呪った。いっそのこと、田宮との秘めた恋が白日の下にさらされ、永田町にいられなくなったほうが幸せだったのかもしれないとさえ思った。

 この思いを鬼頭にぶつけてやらなければ気が済まなかった。考えれば考えるほど、アメリカからの圧力に鬼頭が関わっているという気がしてきた。怒りに震える手で電話をかけ、鬼頭邸に乗り込んだ。