ポピュリズムの風は確かに吹いた。だが、それは嵐になるどころか微風になってしまった。左派ポピュリストとしての山本太郎の勢いは落ちていき、政党としての「れいわ」は曲がりなりにも政党として生きてはいるが、かつてのような熱狂的な期待の物語を背負っている存在ではない。あいかわらず山本太郎は総理を目指すという目標はおろしていないし、おろすべきとも思わないが、熱心な支持層を除いて、野党再編の中心的人物であるという見解ですら頷くものはいないだろう。
かつて吹いた風は嵐どころか微風になった。それではポピュリストが「誤った答え」を導き出すというシンプルな解に戻ったほうが良さそうだ。山本でいえば、彼が問題解決に導く方法として提示した「一発逆転のエンターテインメントとしての選挙」という解に間違いがあった。
選挙は「フェス=祭り」
その価値観も終わりつつある
彼らは全国でおおよそ100万票を獲得すれば比例で1議席が取れる参院選、衆院選の比例ブロック、あるいは同じ選挙区から多数が当選する地方選という制度が生み出した政党にすぎない。彼らが議席を獲得したからといって、何かが変わったのか。個別に見れば小さな変化はあるかもしれない。あるいは「こんな言動の国会議員がいるのか」という呆れや政治への諦念が生まれることがあったかもしれない。だが、大勢にはなんら影響がなかった。れいわが議席を増やそうが減らそうが一貫して彼らは野党の中心には立てずに消費税減税の足並みを揃えることすらかなわない。
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「新しい政治家」像は時限つきで、どこかで変化がやってくるものだ。山本も変化のときを迎えている。56人もの候補者が乱立した2024年の東京都知事選を「静観する」と公言し、候補者も擁立せず、リベラル系候補の支援にもいかず、熱心な地方行脚に勤しんでいた。独自候補を立てたところで当選の見込みは薄く、特定候補の支援に回れば利用されるだけで終わる。かつてあれだけ選挙は「フェス=祭り」だと語っていたが、そんな判断で目先の選挙に加わることなく都市部以外の足場固めに勤しむのはポピュリストというより、ごくごく普通の政治家の活動だ。
彼もまた見方によっては徐々にポピュリズム色が薄まっていく「普通の左派政党の政治家」としての道を着実に歩んでいると取ることもできるのだ。