強大な既得権益に立ち向かうというスタイルこそが山本のすべてであり、彼への期待感が膨らむ原動力になっている。「主義」へのこだわりが薄いからこそ、右派と左派で見解が対立するはずの平成の天皇(今の上皇)についても、彼は「父親のような存在だ」と実にあっさりと語ることができる。それこそが普通の感覚だろう、と言わんばかりに。

「こう言うと、山本太郎にも右派的な要素があるのか、と思われるかもしれないが、(今の上皇には)お父さんのような感じを抱いています。私が母子家庭で育ち、家に父親がいなかったから、父性的なものを求めているというのはあると思います。過去にあった戦争の戦地を回ったり、災害があれば現地に駆けつけたり、被災者を励ましたりしている。それは自分の中にあるお父さん感、父性を満たすものです」

 反安倍政権、反自民党を標榜するリベラル勢力の中にも、第二次世界大戦の戦没者への慰霊の旅を続けた上皇にある種のシンパシーを抱く人々がいることはいる。時にシンパシーを隠さず、自身の政治的主張、とりわけ日本国憲法については無邪気なまでに上皇の発言を見事に利用しているにしても彼らは上皇を「父親」のようには捉えていない。

腐敗したエリートに挑む
「仁義なき戦い」

 この言葉に奇をてらおうとか、右派からも票を取るには「天皇制」を語ることがプラスに働くといった計算は、みじんも存在しない。山本の言葉に嘘を感じさせる要素はなく、とにかく自然に言葉を積み重ねていた。インタビュー中、消費税減税を軸にした共通の政策目標に対して消極的だった立憲など野党への批判を抑制してきた自身は「超大人」と公言した場面や、政治的な立場を「フリースタイル」と表現したところなどで、私や同席した編集者は思わず笑ってしまったが、本人はいたって真面目で、真剣な表情を崩さない。

 その流れで出てきたのが、「仁義なき戦い」という言葉だった。与党も野党も関係なく、もし自分たちの提案に同意ができないならば腐敗したエリートたちが集まっている永田町全体に得体の知れない「フリースタイル」で戦いを挑んでいく、と。言葉の中心は、良い意味でも悪い意味でも「薄弱」だが、そうであるがゆえに、彼は無手勝流に振る舞うという最大の強みを手にしている。