「落ち目芸人」「先生気取りですね」キングコング西野亮廣が芸人・テレビ界隈の批判に屈せずに絵本で大成功できたワケPhoto:SANKEI

25歳にしてゴールデンに進出し、子供の頃からの夢を叶えたキングコング西野亮廣。しかし芸能界で上り詰めることに限界を感じ、「エンタメで世界のトップを取る」べく主軸を切り替える。遊び歩く芸人仲間たちに「落ち目の芸人」と笑われながらも必死に描き続けた絵が評価され、成功を重ねた。周囲からの嘲笑をものともせずに走り続けた彼の成功哲学とは。※本稿は、石戸 諭『「嫌われ者」の正体:日本のトリックスター』(新潮新書)の一部を抜粋・編集したものです。

弱冠25歳でゴールデン進出
その先に待っていたものとは

「西野さんは、オタク気質です。何事も自分で徹底的に調べないと気が済まないし、すべてを吸収しようとする」というのが、マネージャーを務めてきた田村有樹子の見解である。漫才でも当時の流行を分析し、良いものを取り入れ、無いものを探す。西野亮廣のなかで要素を組み合わせ、吐き出すことでキングコングの漫才はオリジナリティを獲得していく。膨大なインプットは、いつも次へのステップとなった。

 やがて回復した梶原雄太が復帰を希望し、2人の活動は再開された。

 2005年、「はねるのトびら」がゴールデンに進出し、西野は25歳にして子供の時からの夢でもあった、「フジテレビのバラエティ、それもゴールデンで活躍する」という夢を叶えることになった。しかし、1つの夢が叶うということは、1つの目標を喪失することでもある。テレビの世界で成功し、視聴率が取れる番組の中心にいた西野も「FNS27時間テレビ」のような大型番組では、ひな壇の後方へ座ることになった。

 そこから見えたのは、MCを務めている大物芸人たちが、テレビ局の幹部たちと親しげに言葉を交わす姿だった。彼らはお互いの駆け出し時代を知っている。中心に行くために必要なのは、「今」の結果以上に、スタッフと付き合ってきた時間だと悟る。もしかしたら自分は一線に挑めるかもしれないとおもっていたが、最初から「時間」というファクターを持たない時点で勝負はついていた。

 この答えに気づいたとき、待っていたのは絶望と虚しさである。どれだけ順調にいっても業界の「真ん中」に立つためには、少なく見積もっても十数年、20年以上かかる。それも別の番組では「真ん中」を張り続け、やがて年を重ねれば下の世代からの追い上げもかわさなければいけない。梶原が精神的に追い詰められてまで登った山だったが、その頂に立ったときに見えたのは、ひな壇から中心まで、たった数メートルの近いようでいて実に遠い距離でしかなかった。