ピーターが18歳になった1978年までには、パイクスピーク精神保健センターの職員はギャルヴィン一家全員、特にミミを知り尽くしていた。ミミは息子たちそれぞれの猛烈な擁護者になっていたからだ。

 ピーターは外来通院しているときには、ヒドゥンヴァレー・ロードにとどまっていたが、それも、本人がそれに耐えられなくなって家を飛び出したり、ドンとミミの手に負えなくなって追い払われたりするまでのことだった。

 そんなときピーターは一度に何日も橋の下で野宿したり、ヒッチハイクでヴェイルに行って大通りをうろついたりした。

 ピーターはその年、入退院を6回繰り返した。コロラドスプリングズのケアーズ・ハウスという支援居住施設がしばらく引き取ってくれたが、ピーターが無断で出て行ったので、戻って来てももう受け入れられない、と職員に言われた。

 7月2日、ピーターはプロリキシンの注射をめぐって両親と口論になり、4か所の大きな見晴らし窓を割ってしまった。後で「面倒なんか全然起こしたくなかったのに、なぜかそういうことになってしまった」と彼は説明している。

 またしてもドンとミミは彼を追い出した。このときにはもう、年齢条件を満たしていたので、ピーターはプエブロの州立精神科病院に送られた。

「僕は女王のエージェントだ」
面接では好青年も被害妄想的

 ピーターがプエブロの病院に3回入院しているうちに、職員は彼の2つの面を目にすることになった。彼は魅力的なこともあった。

「好感が持て、鋭敏で、環境に順応し、身だしなみの良い若者で、面接の場面で適切に振る舞った」。だが、家族に話が及ぶと途端に、「彼の様子全般が著しく大げさで被害妄想的になった」。

 そして、その後、「喧嘩腰」で「はなはだ敵対的」になった。ピーターは、コロラド州のアイゼンハワー・トンネルでの仕事の面接を受けた、と明言した。それから、数週間後にはスキーのインストラクターとして働き始めることにした、と言った。