笑みを浮かべながら
海に突き落とすサイコパス
寝ている人の耳に水を入れたら、どうなるのだろう?
昭和のドッキリ番組であれば検証することもできたかもしれないが、昨今のご時世では、コンプライアンスがそれを許さない。「寝耳に水」、冷静に考えるとすごい言葉だ。これはきっと我々の祖先の誰かが、ちょっとしたいたずら心で誰かにやってみたからこそ、生まれた言葉なのだろう。なんてサイコパスな祖先なんだ。入れたのが水だったからいいものの、ミミズだった可能性もある。
もしかするとそんなユニバースもどこかに存在しているかもしれないが、水だろうがミミズだろうが、寝ている人の耳に何かを入れるヤツは、どちらにせよサイコパスであることに変わりはない。
僕が入院していたのは大学病院だったため、週に1度「教授回診」というものがあった。主治医である教授が部下や研修医をゾロゾロと引き連れ、朝から患者のベッドを巡回するのだ。教授の診察というよりも、部下からの報告を聞くという色合いが濃い時間で、僕は毎週、目の前に差し出された指の数を当てるという、診察なのかミニゲームなのか定かではないものに教授と興じていた。
右目は「そこに手があることが視認できる」程度、左目は「3回に1回は指の数を当てられる」程度だったが、教授は「いいですねぇ、順調ですねぇ」と、ニコニコしながらいつも同じセリフしか言わなかった。
37歳の誕生日を翌週に控えた水曜日の朝、いつもどおり教授ご一行がやってきた。研修医が僕の名前を読み上げ、教授に報告を始めた。
「石井健介さん、視神経炎のため入院。検査の結果、多発性硬化症と診断、これ以上の治療を続けても回復は見込まれないため、来週退院予定です」
えっと……僕は今、何を耳に入れられたのだ?水かミミズか、この際どっちだっていい。どちらにせよ、寝耳に何かを入れてくるヤツはサイコパスだ。
無配慮に告げられた病名と退院の事実、しかも僕に向かって直接伝えられたのではなく、研修医が教授に報告するのを蚊帳の外、いや暗幕の外で聞かされたような感じで、暗い視界が真っ白になっていく。呆然とする僕を尻目に主治医である教授は「石井さん、来週の誕生日は家でご家族と過ごせますね、よかったですね」と、いつものようにニコニコしながら言った。
笑みを浮かべながら人をまたあの荒れた海へと突き落とすなんて、最高にサイコパスなヤツだ。