告げられた病名は
国の指定難病だった

 僕はどこかで、目が見えるようになって退院するものだと信じていた。またあの日常に戻れるのだと信じていた。それが、この非日常が日常になるのかと想像すると、体の震えが止まらなくなった。

 荒れ狂う海の中で自分を保つための技をみがいてきたはずなのに、この波にはまったく歯が立たず、暗闇の世界へ初めて足を踏み入れたときと同じように、恐怖によって再び、自分と、見つけたはずの光を見失ってしまった。

 主治医からは日をあらためて「多発性硬化症」という病名の告知を受けた。自己免疫疾患のひとつで、脳の中枢神経に炎症が起こり、視力障害や感覚障害、運動障害を引き起こす、国の指定難病だ。

 ここまで書いてはこなかったが、僕の顔の左半分は今でも右半分に比べて感覚がにぶく、つねにしびれている感覚がある。そして、ヨーダに気功治療をしてもらうまでは右足に力が入りづらく、つま先を引っかけてスリッパをはくという動作ができず、歩くときも右足を引きずっていた。

 妻は「やっぱりそうですか」という感じで主治医の話を聞いていた。どうやら彼女なりに調べ、あたりをつけていたらしい。僕はといえば、発症した原因もわからないまま、治療方法の確立されていない難病をこの身に宿してしまった事実を、すぐには受け止めきれずにいた。それは「目が見えない」こととはまた違う、別のレイヤーにある出来事だった。

 病室のベッドに戻り、久しぶりに妻の前で泣いた。妻は「病気になっちゃったものは仕方がないよ、これからどう付き合っていくかだね」と相変わらず冷静だったが、僕を抱きしめてくれているその目からは、静かに涙が流れていた。

不安と喜びが
入り混じる退院

 退院は僕の誕生日の3日前に決まり、その日が近づいてくると、不安のなかに退院できるという喜びの感情も入り混じってきた。ちょうどブラックコーヒーにミルクをそっと注いだときのようなマーブル模様が、ぐるぐると心の中でまわり始めていた。