要は心の持ちようで、だれでも満ち足りた気持ちになれるはずだが、実際にはなかなかむずかしい。同様に「幸福な死」を迎えるのも簡単ではない。
たった一度きりの「死」を
上手に迎えるための条件
老いと死に関する新書を何冊か書いたので、最近、「上手な最期の迎え方」というような内容で講演してほしいと頼まれることが増えた。だれしも死ぬのは仕方ないとして、人生の最期に苦しんだり、つらい思いはしたくないということだろう。
結論から言うと、「上手な死」とは、余計な医療を受けずに、比較的楽に死ぬ自然な死で、「下手な死」とは、無駄な医療を受けて余計な苦しみを味わいながら、尊厳のない状態で死ぬ死だと私は思う。
現実にはあまり上手でない死に方をする人が多いが、それは病院に行ったら何か有効な治療があるのではないかとか、苦しみを減らしてもらえるのではとか、自宅で看取るのは不安だから専門家にまかせたいなどという気持ちのせいだろう。
人が死ぬときには、医療は無力で、余計な医療はむしろ有害で、臨終の間際にする医療は、ほとんどが家族を納得させるためのパフォーマンスである。
死ぬときに苦しみたくないという気持ちはわかるけれど、人間も生き物なので、死ぬときにある程度苦しいのは致し方ない。死ぬときの苦しみをゼロにしようとして病院に行くと、余計な医療を施されて、場合によっては悲惨な延命治療になってしまう。人生で1回だけしか経験できない死を、そんなふうに下手にやってしまうのは実にもったいない。
死ぬときはある程度苦しい、それは仕方がないと、しっかり心の準備をしていれば、実際に死ぬときには、思ったほどではないなと安堵できるのではないか。だったら、頑なに苦痛を拒絶するのではなく、腹を括っておいたほうが上手に死ねると思われる。
ここには、実行がむずかしいことばかり書いてあると、感じる読者もいるかもしれない。だけれど、世にあふれるきれい事情報や幻想に惑わされず、しっかりとほんとうのことを知れば、自宅で自然な死を迎えることは、決してむずかしくない。