家で看取るのは決してむずかしいことではない。じっと見守るだけでいいのだから。水がほしいと言えば吸い飲みで与え、腰がだるいと言えばさすり、横を向きたいと言えば身体を支えてやればいい。死ぬ間際は、肺そのものの機能が低下しているから酸素を与えても無駄だし、点滴は血を薄め、心臓と腎臓に負担をかけるだけで、何もしないのが死にゆく者にとってはいちばん楽な道となる。
それを黙って見ていられないのは、死の実際を知らず、ふだんからの心の準備がなく、何かしてあげたいという自分の思いを抑えられないからだ。
こういうほんとうのことを、医者の側もはっきり言わないから、無意味な期待が蔓延している。下手に言うと、この医者はやる気がないとか、頼りないと思われるので、なかなか口にできないのだ。しかし、多くの医者はそう思っているはずだ。
むかしはだれでも家で静かに死んでいた。医療と文明が発展して、むかしできていたことができなくなったのは、余計な思い込みのせいにほかならない。
あの世を信じられる人と
信じられない人はどちらが幸せか
あの世を信じられる人は、死んでも終わりでないと思っているから、死の恐怖もあまり感じないだろう。この場合、あの世がどんなものかわからないことが重要で、わかってしまうと都合のいい夢のような気分には浸っておれない。
あの世の存在を思い描くのは、現世でまじめに生きているのに不幸な人がいるからだというのを聞いたことがある。まじめに生きているのに不幸なのは、理不尽だから、帳尻を合わすために、来世での幸福があるはずというわけだ。
この世で思い切り幸運に恵まれ、満足しきった人生を送った人は、別にあの世などなくても不満を抱かないかもしれない。それでもあの世があってほしいと望むのは、欲が深すぎるということだ。