双発のパワーによる上昇性能を生かし「屠龍」は、高度1万メートルからの空襲で日本全土を火の海にした米爆撃機B-29を迎撃できた数少ない戦闘機として知られている。
梅田は言う。
「馬力ある大きな機体を生かし、『ゼロ戦』などでは搭載できなかった大口径の機関砲も搭載することができました。B-29をはじめとする大型爆撃機の迎撃用として、戦車(「九五式軽戦車」など)の主砲として使われていた大きくて重い37ミリ機関砲を『屠龍』に搭載することもできたのです」
戦車の主砲を“空中戦用に転用”するなど、陸軍機ゆえの多用途での活用が可能だったのだ。
だが、一方で、「ゼロ戦」などでも到達できなかった「屠龍」の優れた、この高い上昇性能のせいで“悲劇”が生まれていく。
北九州にやってきた
B-29の誤算
万能機だった故の「屠龍」の悲劇をここに記したい。
日本製鉄八幡製鉄所など日本の基幹産業の一大工場群を構える北九州は、B-29が空母など海上からではなく、陸上基地(中国・成都)を拠点として行った初めての日本本土空襲(1944〔昭和19〕年6月16日)があった地域だ。
この日から始まった米爆撃機の日本本土空襲に対し、「屠龍」の部隊が敢行していた壮絶な闘いの記録が戦史に刻まれている。
樫出中尉(編集部注/樫出勇。「屠龍」操縦士としてB-29の最多撃墜記録を持つ日本陸軍航空隊きってのエース・パイロットとして知られる)の手記『B29撃墜記 夜戦「屠龍」撃墜王 樫出勇空戦記録』のなかに、こんな興味深い記述がある。
「『文庫のあとがき』に代えて」を書いた高城肇によると、これは樫出が還暦のころに書いたという一文だ。
《すでに米軍は、わが第一線を後方に取り残し、一気にわが本土を突かんものと、中国大陸の一角を休翼地として、北九州の重要工業地帯(現在の北九州市)に矛先を指向してきたのである。
だが、米軍にとっても、このB29を第一線に出動させてきたのは初めてであり、試験的な意味もあってか、まずは夜間を選んでやってきた。それにしても第一回のテスト空襲の目標を、わが防衛空域に向けてきたのは米軍のミステークであったろう》
「屠龍」がB-29へ特攻=体当たりを仕掛けるであろうことは、すでに宿命づけられていたのかもしれない。







