それを予期するような樫出の言葉が、こう続く。

《なぜならば、当時、夜間防衛陣として、わが陸軍航空の中で、防衛態勢が十分に整っていたのは私の所属する小月(山口県)夜間戦闘隊が第一位であったからである。ことにわが戦隊は、大型機に対応する火砲を装備し、対爆撃機訓練をかさねてその実力をほこり、事実上の迎撃戦隊であることは、知る人ぞ知るという精鋭部隊だったのである――》

生きて還れぬのなら
せめて敵機を道づれに

 後輩の操縦士らに対し、体当たりを禁じていた樫出だったが、一方で、こんな言葉も、この自伝のなかに残している。

《私たちの信念としては、自己犠牲の際には必ず敵機を道づれの観念があり、良くも悪くもそういう観念が名誉とされていた時代のことである》と。

 同年8月20日、八幡空襲において、陸軍第一二飛行師団飛行第四戦隊の「屠龍」(野辺重夫軍曹が前席の機長、後部座席の搭乗員は高木伝蔵兵長)の体当たりが現実のものとなった。

 高高度のB-29にまで肉薄できる“イカロス=「屠龍」”を手に入れた小月夜間戦闘隊には、樫出や野辺たち日本陸軍航空隊屈指の精鋭操縦士が集められていた。

 そして、北九州上空において、「屠龍」による初めてのB-29への特攻=体当たりが敢行されたのだ。

 高高度まで達することのできる戦闘機でなければできなかった体当たりは、まるでギリシャ神話のイカロスの悲劇のようである。

 樫出の想像通り、米軍はミステークを犯した。

 この体当たりの数日前……。

「編隊前方を飛行するB-29に体当たりできれば、2機を同時に撃墜できる」と、野辺軍曹は同僚の操縦士たちに話していたという。

 事前に、「体当たりによる特攻」を覚悟していたことが分かる。

B-29を堕とすには
特攻しか残されていない

 この、野辺軍曹、高木兵長の搭乗する「屠龍」が体当たりせざるを得なかった、その“理由”について、梅田はこう説明を付け加えた。

「このとき『屠龍』には37ミリ機関砲が搭載されていましたが、元々が戦車の大砲なので、弾は1発ずつ補填しなければならず、その装填時間には20秒以上も必要だったのです。一瞬で勝負が決まることが多い空中戦で、この時間は命取りです」